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新まなざし論 no.1

新まなざし論
和楽音と大和絵をつなぐ音藝という概念


知性、分かる、信念、知る/虎関師錬★

 「見ることは信じること」としてデュシャンが、主語制の〈知性〉と〈分かる〉に対して、述語制の〈信念〉と〈知性〉を区別して対置してみせたその二〇世紀物質文明の宗教美術は、日本の十五世紀に遡る。室町期五山アヴァンギャルドのリーダー虎関師錬(こかんしれん)が、天つ神の〈経師〉=〈知性〉、天つ罪の〈梵唄〉=〈分かる〉という主語制に対して、国つ神の〈唱導〉=〈信念〉、国つ罪の〈念佛〉=〈知る〉という述語制として区別して、仏教美術を《禅》において統一する視点を明確に示してみせたことと類比することができる。
 虎関師錬(こかんしれん)は、仏画、仏像、禅の水墨画の制作行為を〈仏教〉の第一義的な《韻文行為》と捉え、仏典の解釈や経文を正しく読み上げる修業実践を《仏教》の第二義的な〈散文行為〉と捉えた。そして、仏画、仏像、禅の水墨画の制作行為としての〈仏教〉の《韻文行為》を、国つ神の〈信念〉と、国つ罪の〈知る〉とが非分離に展開する内なる真の第一義の宗教活動の行為、つまり述語制としての非自己の主体化の具体的な場所としたのである。その上で、仏典の解釈や経文を正しく読み上げる修業実践としての《仏教》の〈散文行為〉を、天つ神の〈知性〉から、天つ罪の〈分かる〉を分離して展開する外なる擬制の第二義的な宗教活動の実践、つまり主語制としての自己の主体化の抽象的な場としたと理解することができる。
 しかし一般に仏教伝来は六世紀に知識としてもたらされたことになっているが、仏教受容は〈物〉がもたらされたことと同じように、散文的な主語制の主体化として捉えることだけではその全容を捉えることは決してできない。
 入ってきた漢字の仏典を、読解という主体化を通じて倭に広まっていったそこには、〈分かる〉天つ罪、〈知性〉天つ神との主語制の散文的な葛藤と、〈知る〉国つ罪と〈信念〉国つ神との述語制の韻文的な葛藤をへながら受容されていった、多くの時間と出来事が内包されている。その主語制の葛藤と述語制の葛藤の間に生成された多くの時間と出来事を理解しなければ韻文的な日本美術史を理解することはできないだろう。
 《仏教信仰》と《神祇祭》が融合する「神仏習合」の上に開いた禅の五山アヴァンギャルドの虎関師錬(こかんしれん)は、大陸からの「仏教伝来」の韻文的な出来事としての《仏教美術》を次のように整理する。
 仏教伝来で〈知る〉という国つ罪の『念佛』を見つめる述語制の非自己が、〈分かる〉天つ罪としての主語制の『梵唄』の自己を発見する。それは同時に、《神祇祭》の〈知性〉の天つ神の『経師』を主語制の「満足」として分離する。その一方で、述語制の〈信念〉の国つ神を「羨望」しながら《仏教美術》の場所を非分離に『唱導』するという主体化の出来事として捉えてみせたのである。
 つまり虎関師錬(こかんしれん)は、《仏教美術》という国つ神の『唱導』と、国つ罪の『念佛』に、《神祇祭》と融合した「神仏習合」という《仏教信仰》の天つ神の『経師』と、天つ罪の『梵唄』とを対比して対置し、この四つの音藝の韻文構造から《禅》の世界をすっきりと整理してみせたのである。
takara-1
sakura-takwara-sagsi 2018

経師、梵唄、唱導、念佛★

 大陸から伝来した仏教は、奈良期に天つ罪の〈冥界〉として発生し、同時に土着的な神祇祭が〈顕界〉の天つ神として疎外される韻文構造にありました。〈冥界〉とは死者の界であり〈顕界〉とは生者の界です。つまり大陸から来た、目にみえない天つ罪の〈冥界〉の《他者》としての仏教の梵唄(ぼんばい)が、目にみえる神祇祭の天つ神としての〈顕界〉の祝詞(のりと)で済ましていた《大和人》を超える韻文構造の出来事として発生したのです。
 ここで用いている梵唄(ぼんばい)とは、祝詞(のりと)と対応する韻文概念であり、仏徳をたたえる特定の偈頌(げじゅ)です。祝詞(のりと)とは土着的な神祇祭の韻文であり〈顕界〉の倫理に支えられた現実的な世界の一部であるのに対して、梵唄(ぼんばい)は仏教的な〈冥界〉の論理に支えられた物語的な世界の一部です。奈良から平安初期、大和朝廷は、現実的な神祇祭の天つ神の祝詞(のりと)のうえに、物語的な仏教の天つ罪の梵唄(ぼんばい)を設定し律令統治体制の韻文構造を強固なものにしていきました。〈冥界〉の天つ罪としての《他者》の仏教の梵唄(ぼんばい)の論理性が、〈顕界〉の天つ神としての《大和人》の神祇祭の祝詞(のりと)の倫理性を覆う説得力を持ちながら大きく隆盛したのです。
 そして平安中期、神祇祭の〈顕界〉の祝詞(のりと)を他者とする大陸の仏教の〈冥界〉の梵唄(ぼんばい)の主体を、直接確かめるべく、二人の若い聡明な仏性が同じ遣唐使船に乗って唐へ旅立ちました。
 峡嶋の日本を離れ大陸の仏教に触れる韻文行為は、島国〈クニ〉天つ神の神祇祭の祝詞(のりと)の外にでる峡嶋〈ツチ〉国つ罪の梵唄(ぼんばい)の韻文行為であり、また島国〈クニ〉天つ罪のc2 梵唄(ぼんばい)を超える峡嶋〈ツチ〉国つ神の、真の梵唄(ぼんばい)の韻文構造を理解し、仏教全体をつかみとろうとする散文行為です。前者は梵唄(ぼんばい)の韻文性を深め真言宗として持ち帰った峡嶋〈ツチ〉国つ罪の空海であり、後者は梵唄(ぼんばい)を散文性において解釈する天台宗の物語を把握して持ち帰った峡嶋〈ツチ〉国つ神の最澄です。
 空海の密教(みっきょう)が加持祈祷の梵唄(ぼんばい)で医術を上回る実用的な国つ罪の仏教として隆盛したのに対して、最澄は、梵唄による加持祈祷を含む奈良以来の仏教をその理念地盤を明らかにする国つ神の顕教(けんぎょう)をめざしました。しかし空海の密教(みっきょう)の力を、最澄の顕教さえも、真言-東密として認め、台密と呼ぶ天台宗の密教(みっきょう)を、空海の国つ罪の密教(みっきょう)に学ぶほど、空海の思想はこの時代の仏教を密教(みっきょう)によって牽引し、その後の仏教の顕密体制(けんみつたいせい)の基盤を生成していきました。しかし空海の死後、自力本願の真言宗の密教(みっきょう)としての加持祈祷の梵唄(ぼんばい)の国つ罪は、最澄を継承する天台宗の他力本願(大乗)の顕教を基盤とする顕密体制(けんみつたいせい)の国つ神の思想に覆われ見えなくなっていきました。
 しかし天台の顕教の思想は、現実をそのまま修行世界として受け入れていく他力本願(大乗)の本覚(ほんかく)思想の流れにのって、恵心僧都源信、法然、親鸞へと解体の道を辿っていくことになっていきました。そこで最澄の時代の平安仏教の経師(きょうし)(言葉)に回帰しようとしたのが大乗の法華宗であり日蓮です。
 ここで顕教は、浄土宗の国つ罪の念佛(ねんぶつ)(声)と法華宗の天つ神の経師(きょうし)(言葉)の二つの他力本願(大乗)に分かれて継承されていくことになっていったのです。この頃、空海の真言宗の自力本願(小乗)を継承しながら、中国禅の臨済宗を栄西が日本に請来し、道元が中国禅の曹洞宗の印可を中国で得て、隆盛する武士と商人に支持されながら人を唱導(描き導くこと)を展開する禅宗が広まっていきました。
 ps9 梵唄(ぼんばい)とは所謂(いわゆる)《声明》のことですが、鎌倉末期、日本初の仏教史『元亨釈書』を表した五山アヴァンギャルドの先頭を行く虎関師錬(こかんしれん)は、仏陀に対する帰敬、礼拝、讃嘆、憶念を声にする《聲明》を、主観的な呪文歌とする『』と、客観的な声とする『念佛(ねんぶつ)』に分けました。そして《仏教聲明》の真理を、言葉で主観的に説く『経師(きょうし)』と、《仏教美術》の仏説を、禅の行為の絵として客観的に導く『唱導(しょうどう)』に分けて、禅宗の視点からの仏教論理を組み立てたのです。
 平安時代に中国から日本に入ってきた《仏教聲明》は、はじめ梵唄(ぼんばい)または唄(ばい)匿(のく)と呼ばれていましたが、空海、最澄の頃から、経文に抑揚とフシを付けて詠うように読む《声明》と、抑揚をつけずに読む《読経》に区別されました。このとき《声明》の無意識を天つ神とし、《読経》の無意識を天つ罪とする空海系の密教と、《読経》の無意識を天つ神とし《声明》の無意識を天つ罪とする最澄系の顕教との間に根底的な葛藤が生まれました。それは韻文的な《真言声明》と散文的な《天台声明》の違いとなって現れました。例えば書き下し言葉の和讃に変容して民衆の間で伝承されたそれ(天台声明と真言宗声明)の現在のCDを聞いてみてもその差は明瞭に聴くことができます。
 現実をそのまま受け入れる和讃的な本覚思想の前に他力と自力の差異をなくした鎌倉末期の《仏教美術》と《仏教聲明》を、「禅の行為」として統合した虎関師錬(こかんしれん)は、自らを、言葉を「絵」として客観的に『唱導(しょうどう)』する国つ神の指導者とした上で、《読経》が《聲明》を超える浄土宗や法華宗の顕教思想の『経師(きょうし)』を天つ神とし、そして《聲明》が《読経》を超えるという真言宗の主観的な呪文歌の密教思想を天つ罪の『梵唄(ぼんばい)』として合理的に整理しまた。そして最後に、素朴な客観的な声の『念佛(ねんぶつ)』を国つ罪に位置づけたのです。
 虎関師錬は、顕教の経師(きょうし)の「言葉」の天つ神、密教の梵唄(ぼんばい)の「呪文歌」の天つ罪、唱導(しょうどう)の「絵」の国つ神、念佛(ねんぶつ)の「声」の国つ罪というようには具体的に描いてはいませんが、虎関師錬(こかんしれん)の無意識はそこをさししめているように思われます。
 鎌倉末期、五山アヴァンギャルドの先頭を行く虎関師錬(こかんしれん)は、人を唱導(描き導くこと)する『禅』の場所を明らかにするべく、唐・宋の書物を刪改(さんかい)(詩文の字句を改めたり削ったりする)において著述した日本初の仏教史『元亨釈書』を表した。その巻二十九「音藝志七」において、養老三年(719)を基準に、音声を発する四つの音の藝として、四(*3)つの者の説経師、梵唄師、唱導師、念佛師と四つの技の経師、梵唄、唱導、念佛の「発生」と「生成」を区別して解説しています。
 ここでわたしたち美術家は、虎関師錬の経師(きょうし)、梵唄(ぼんばい)、唱導(しょうどう)、念佛(ねんぶつ)の「四つの音藝」に分けた無意識の分類を、島国〈クニ〉天つ神の経師(きょうし)の言葉、島国〈クニ〉天つ罪の梵唄(ぼんばい)の呪文とし、自らの音藝を絵の言葉にして導く峡嶋〈ツチ〉国つ神の唱導(しょうどう)に位置づけ、 峡嶋〈ツチ〉国つ罪の念佛(ねんぶつ)の声としたと理解することで「まなざしの論理」に繋げることができると考えます。
 つまり物を小乗として排除してしまった仏教=言葉の最澄的なるものの大乗による「知の解体」を前にして、虎関師錬は、物=禅(小乗仏教)と言葉=仏教(非禅)を繋げて、行き来する論理を模索しているのです。
 恰も最澄と逆転し、《物》が〈大乗〉となり《言葉》が〈小乗〉となってしまった二〇世紀現代科学において、自らを分析者の場所に設定し、〔主人〕、〔大学人〕、〔分析者〕、〔ヒステリー者〕の四つの言説=《言葉》の〈小乗〉を、物の〈大乗〉の内部から分析して見せているジャック・ラカンがしているように、《物》=禅(小乗仏教)を言葉=仏教(非禅の大乗仏教)に繋がる〈世界〉としたうえで、峡嶋〈ツチ〉国つ神の唱導(しょうどう)の絵に「分析者」としての自らを設定し、島国〈クニ〉天つ神の経師(きょうし)の言葉の〔主人〕、島国〈クニ〉天つ罪の梵唄(ぼんばい)の呪文の〔大学人〕、峡嶋〈ツチ〉国つ罪の念佛(ねんぶつ)の声の〔ヒステリー者〕として設定してみせていると考えられます。
 しかし五山アヴァンギャルド虎関師錬が『元亨釈書(げんこうしゃくしょ)』を書いた元亨二年(1322)の時代、仏教の行為は、〈聲明〉、〈読経〉〈念仏〉、〈呪文〉としての《言葉》を疑うことのない註釈の行為であり、その註釈の差異が法華宗や浄土宗や禅宗などの仏教の差異として捉えられていました。法華宗であれ浄土宗であれ禅宗であれ、その註釈された「倫理」としての仏性を教えることを通じて庶民に「読み書き」を教える機能として庶民に受け入れられていたのです。庶民にとって、法華宗、浄土宗、禅宗それぞれのどの「読み書き」となるかは、《説経師》や《唱導師》との出会いの偶然でした。
 《説経師》の起源は、中世(十二~十六世紀)に存在した声(しょう)聞師(もじ)と呼ばれる芸能者であり、陰陽道の文化を源流とした読経、曲舞、卜占、猿楽など、呪術的芸能、予祝芸能を行なった者たちです。猿楽の観阿弥や世阿弥もこの声聞師(しょうもじ)(表イ)として出現した者です。江戸期に浄瑠璃の影響を受けたものを〈説経浄瑠璃〉と称し、修験者=山伏の〈祭文〉と結びついたものを〈説経祭文〉、悲哀を帯びた歌いもの風を〈歌説経〉というように、それぞれの選択的な教判の批評の仕方において多様に別れてる説経文学(せっきょうぶんがく)が「言葉の絵」として形成されていきます。
 仏法を説いて衆生(しゅじょう)を導く《唱導師(しょうどうし)》は、庶民に仏教経典を「語り物」として講じ教義を説くことであり、それ自体は文芸でも芸能でもありませんでしたが、文字の読み書きのできない、庶民への仏教教化という契機から、正しい音韻(おんいん)抑揚をともなった批評において語れるものとなって行きました。つまり因縁・比喩を強めながら総合的な教判の批評の 唱導(しょうどう)文学(ぶんがく)を「絵の言葉」として生み出すことになっていくのです。
 乱世のなかで動揺するしかない無知文盲の民衆こそ最大の救済対象と『念佛』を唱えた浄土宗の法然は、選択的な教判の注釈としての『梵唄』の呪文の「音の声」を否定して、聴くことによって庶民のこころを直接動かし信を啓蒙する総合的な教判の注釈としての『念佛』の「声の音」の意義を主張しました。法然の弟子で、思想の根底に「聞法と聞即信」をおく宗教家親鸞は、浄土真宗において、総合的な教判の註釈としての『念佛』の「声の音」の他力本願の註釈を、選択的な教判の註釈としての『梵唄』の「音の声」の自力本願との差異を無くしてみせていました。法然の峡嶋〈ツチ〉国つ神の『念佛』は島国〈クニ〉天つ神の『経師』であり、親鸞の『念佛』は峡嶋〈ツチ〉国つ罪であり、『梵唄』は島国〈クニ〉天つ罪でした。
 よくもわるくも仏教唱導教師の専門家『唱導師』は、『梵唄=声明』から派生した「和讃」や「講式」などの註釈を媒介にしながら、平家物語を語る「平曲」において「琵琶演奏」を用いることに繋がる『説経節』としての民衆芸能をつくりだし形式化していくことになります。また近世において、隆盛した「三味線伴奏」をえて洗練される一方で、操り人形と提携し小屋掛で演じられ、江戸、大阪の庶民に広まり、万治、寛文にかけて、江戸では元禄のころに最盛を迎えることになります。
 そのような状況において、自らも正統なる『唱導師』として仏教と禅を探究する虎関師錬は、大陸の物語の模倣による「平曲」などの島国〈クニ〉天つ神の《説経節》の主体化を学ぶ前に、自らの峡嶋〈ツチ〉国つ神の〈唱導〉の理念を主体化したのです。
 峡嶋〈ツチ〉国つ神の総合的な教判の批評としての『唱導』は主体化の絵を中心にした統治語であり、島国〈クニ〉天つ神の選択的な教判の批評としての『経師』は主体化の言葉を中心にした国家語であり、島国〈クニ〉天つ罪の選択的な教判の註釈としての『梵唄』は主体化の呪文を中心にした社会語であり、峡嶋〈ツチ〉国つ罪の総合的な教判の註釈としての『念佛』は主体化の声を中心にした世界語であると区別してみせたのが、仏教史『元亨釈書(げんこうしゃくしょ)』です。巻二十九「音藝志七」の「四家の焉(いずく)んぞ、経師焉(いずく)んと曰く、梵唄焉(いずく)んと曰く、唱導焉(いずく)んと曰く、念佛焉(いずく)んと曰く」です。そこで虎関師錬は、平曲などの悲劇『説経節』について、単なる言葉だけの『経師』と異なる真の『唱導』の技術の本質は、聴衆を泣かせる前にまず自ら先に泣く【先泣の誉】を、 唱導(しょうどう)の名手といわれた唐の慶意が伝えられていると記述しています。
 つまり十四世紀の虎関師錬の『音藝』とは、歌ったり演奏したりする『信念』の行為であり、あたかも二〇世紀のデュシャンが【見ることは信じること、信じることは生きること】と言ってのけたように、自ら感動し、泣く【先泣の誉】の主体化の自己のテクノロジーだということです。

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sakura-takwara-sagasi 2018

大和絵音藝史★

 一、音藝史の発生と生成
 虎関師錬の音藝は、[念佛][唱導][梵唄]「経師]の四つの音の違いではなく、[念佛=声][唱導=絵][梵唄=呪]「経師=言]の四つの「音に値する信念」の違いとして組み立てられているところに、和楽音と大和絵を繋ぐ糸口があります。
 逆に言えば虎関師錬の音藝の思想は、[念佛=声]の国つ罪の世界語、[唱導=絵]の国つ神の統治語、[梵唄=呪]の天つ罪の社会語、「経師=言]の天つ神の国家語として段階の違い示す思想でもあります。それが箏曲や琵琶や三味線などの和楽音と大和絵を繋げる中立の思想を可能にしています。、
 そこで音藝を歴史を重ね、[①念佛=声]の世界語の発生、[❷唱導=絵]の統治語の生成、[③梵唄=呪]の社会語の発生、[❹経師=言]の国家語の生成という発生と生成の段階的反復を捕まえることで、我が国固有の和楽音と大和絵の発生と生成の変容をつかまえることができると思われます。そこで大和絵話楽音の段階的発展を整理し、表にまとめてみました。
 [①念佛=声・発生]峡嶋〈ツチ〉国つ罪の主体化、[❷唱導=絵・生成]峡嶋〈ツチ〉国つ神の主体化、[③梵唄=呪・発生]島国〈クニ〉天つ罪の主体化、[❹経師=言・生成]島国〈クニ〉天つ神の主体化の四つの主体化の段階の変容として、仏教大和絵音楽年表を鎌倉初期までの《表ア》と、鎌倉から江戸初期までの《表イ》に表してみました。虎関師錬の五山アヴァンギャルドの「禅」からみた、飛鳥以前、平安、平安末から鎌倉、鎌倉から江戸初期までの、理念的な「仏教大和絵、音藝史」の年表です。従って事実の歴史を超えて成立した理念の歴史です
 しかし世界語の[①念佛=声・発生]、統治語の[❷唱導=絵・生成]、社会語の[③梵唄=呪・発生]、国家語の[❹経師=言・生成]の循環と反復はその順不同を繰り返し反復しながら、より複雑に和音楽と大和絵をつなげていくことになります。つまり初期は共同幻想と文化は共時的に発展しますが、国家語の達成以後は、政治と文化は、世界語、統治語、社会語、国家語を巡ってずれることで活性化されダイナミックに発展します。
history1
history
 まず詩的述語帯の原詩的述語面における縄文期の[①念佛=声発生]、峡嶋〈ツチ〉国つ罪の主体化の「鈴・鼓」、弥生・古墳期の[❷唱導=絵生成]峡嶋〈ツチ〉国つ神の主体化の「笛・大和琴・歌垣」。次に、百済の味摩之(みまし)によって朝鮮半島から[③梵唄=呪発生]島国〈クニ〉天つ罪/百済の味摩之(みまし)によって 伎楽(ぎがく)がもたらされた、三韓楽(新羅楽・百済楽・高句麗楽)及び、梵唄=声明が伝来します。そして同時に「神祇祭」が自覚されながら、大陸の影響を受けた古事記や万葉集や竹取物語が生まれます。
 そして[❹経師=言生成]の段階で、島国〈クニ〉天つ神/七弦琴・琵琶・尺八・笙・篳篥・鼓などの楽器に整理された「舞と演奏」の雅楽が成立します。大宝元年(701)に大宝律令が発布され、和楽の楽師十人と楽生歌女二四八人、唐楽の楽師十二人と楽生六人、三韓楽の楽師十二人と楽生六十人、伎楽の楽師三人と楽生若干という雅楽の楽人(がくじん)が大宝律令に記述され、楽人(がくじん)の雅楽寮(ががくりょう)も設立されたとあります。そして天平勝宝四年(742)四月九日には雅楽と声明が融合する聖武天皇が発願した東大寺盧舎那仏像開眼式法要が行われました。諸寺の僧一万人を率いて開眼導師を印度僧の菩提僊那(ぼだいせんな)が務め、導師が持つ大筆には沢山の絹の紐がつけられ、その先端は、孝謙天皇、すでに攘夷していた聖武太上天皇、光明皇太后をはじめ、橘諸兄ら貴族の手に握られていました。そこでは、三韓楽、唐楽、散楽などのアジアの様々な「舞と演奏」をあいだに挟んで、唄匿(ばいのく)、散(さん)華(げ)、梵音(ぼんのん)、錫杖(しゃくじょう)という四種類の梵唄=声明が、百数人の僧侶の大合唱で「四箇(しか)法要」として歌われました。
 この時代、伊勢物語、古今集、日記文学、源氏物語、枕草子などが、詩的述語帯の物語的述語面で、仏教、大和絵、仏像彫刻、書、和歌・文学のそれぞれと共に統一されながら大きな平安文化エポックを形成していきました。
 エポックの意味は[❹経師=言・生成]の島国〈クニ〉天つ神の成立に対して、[❷唱導=絵・生成]の峡嶋〈ツチ〉国つ神が議論されることになります。そしてその議論は、[①念仏=声・発生]の峡嶋〈ツチ〉国つ罪をめぐり、和漢朗詠集や、平安アヴァンギャルド、西原・朗詠。今様、が生み出され、その多様性が、藤原定家の和歌十体や運慶らの造形芸術に広がりをもたらした。
 それは[❹経師=言・生成]の島国〈クニ〉天つ神を支える叩き、歩きなどの声聞師の下層文化が末広くひろがりました。
 それは逆にその最下層の場所から[①念仏=声・発生]の峡嶋〈ツチ〉国つ罪の活動を促します、能-狂言の猿楽アカデミズムです。他の一節切の尺八も始まります。
 そこに[❷唱導=絵・生成]の峡嶋〈ツチ〉国つ神の虎関師錬の統治語が登場します。阿弥派アカデミズム、千利休など土佐光起らの活動も始まります
 文化が社会化され「③梵唄=呪・発生]島国〈クニ〉天つ罪の箏曲、三味線アヴァンギャルド、地唄、端唄などの社会語が広がります。
 そして[❹経師=言・生成]の島国〈クニ〉天つ神の国家語としての八橋検校アカデミズム『六段の調』が達成される。思想では朱子学アヴァンギャルド、永徳-探幽の狩野派アカデミズムの確立。
 そこに[①念仏=声・発生]の峡嶋〈ツチ〉国つ罪の世界語の地歌三味線、絵画では宗達の登場。
 それを[❷唱導=絵・生成]の峡嶋〈ツチ〉国つ神の統治語の光悦の出現、浄瑠璃三味の出現」
 [③梵唄=呪・発生]島国〈クニ〉天つ罪の社会語の大和絵アヴァンギャルド・尾形光琳、人形浄瑠璃の出現
 [❹経師=言・生成]島国〈クニ〉天つ神の国家語による天明歌舞伎、酒井抱一の琳派に継承される
 国家語の元に、世界語、統治語、社会語が差異をなくして包括された江戸大衆文化が確立することになる。

 音藝の四つの言葉とは経師の天つ神の信念であり、梵唄の天つ罪の信念であり、唱導の国つ神の信念であり、念仏の国つ罪の信念の四つの信念です。中でも経師の天つ神は、言葉の信念であり、梵唄の天つ罪は呪文の言葉の信念であり、唱導の国つ神は絵の言葉の信念であり、念仏の国つ罪は声の言葉の信念です。全て言葉にされた音藝の信念です。
 それは音楽素を中心とした絵画素と彫刻素を包み込んだ非言説的な西欧絵画のまなざしと全く異なる認識です。


三、西欧絵画のまなざしと中国山水図のまなざしと大和絵のまなざしの書と音藝の世界
 西欧絵画のまなざしと、中国山水図のまなざしと、大和絵のまなざしの決定的な違いは、画面を垂直立てて、視角90度の終止形な音楽素を中心に、視角67.5度の描く絵画素、視角45度の名ざす彫刻素の同心円なしている西欧絵画のまなざしに対して、画面を地面に水平に広げて、視角45度の名ざす彫刻戒を中心にする中国山水図と、視角22.5度の画楽如を中心にする大和絵の違いです。(図2)
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図2
 古代性の差異として西欧絵画は、神の音楽素、鳥の絵画素、犬の彫刻素として視線を重力に抵抗する懸垂重力です。中国山水図は、西欧絵画のまなざしの彫刻素45度を地面に倒した物犬のまなざしです。その意味では西欧絵画のまなざしとつながっている均衡重力です。中国山水図と大和絵は、中国山水図の地面のスクリーンに対して、狗シテが水面を踊るスクリーン感覚です。したがって大和絵のまなざしの中心は、視角22.5度の浮揚重力です。
 大和絵のまなざしは中国山水図の彫刻戒を媒介に西欧絵画にもつながっていますが、直接的な関係はありません。ここで重要なことは、中国山水図も大和絵も、書と音または書と音藝を、画面に対して90度の世界に位置付けていますが、視角67.5度の絵画律や絵音律の終止形の秩序の中に含まれたものではなく、逆に書と音や書と音藝に、隙間を埋め尽くされた世界です。特に大和絵は音藝の四つの信念に影響される関係にあります。
 つまり視角45度の名ざす彫刻戒の提題表象を中心とする中国山水図のまなざしの描く音楽如の動詞表象や終止形な絵画律の形容詞表象を書や音が視角90度から包含し隙間を埋めています。また視角22.5度の描く画楽如の動詞表象を中心とする大和絵のまなざしの名ざす刻彫戒の提題表象や終止形な絵音律の形容詞表象を、視角90度の書や音藝がその秩序を包含し四つの信念で隙間をうめています。したがって西欧絵画のまなざしのように非言説的表象と言説的表象が区別されないままである、非言説的表象を区別して書や音藝を意識しないがきり言説的表象は入り混じったままです。
 ここが、視角90度の終止形な音楽素を中心として、視角67.5度の絵画素と、視角45度の彫刻素が五線譜の音楽世界を包み込む西欧絵画のまなざしと決定的に異なるところです。
 視角22.5度の画楽如の動詞表象を中心とする大和絵の描くまなざしは、その浮揚重力とともに、視角90度の書の空間と音藝を、視角67.5度の絵音律の終止形の差異として感じ取っています。その時、視角45度の刻彫戒の名ざす関係とともに、虎関師錬の「言葉の経師の国家語」「絵の唱導の統治語」「呪文の梵唄の社会語」「声の念仏の世界語」の音藝の信念の差異が大変重要な指標となります。
 また西欧音楽は西欧絵画のまなざしの非言説的表象の中心で、言説的表象と対峙しています。
 言説的表象と非言説的表象が入り混じる大和絵のまなざしを、仏教的な「音藝史」からみれば、終止形な絵音律の〈国つ罪〉の『念佛』の世界語として発生し、次に描く画楽如の〈国つ神〉の『唱導』の統治語が生成し、次に名ざす刻彫戒〈天つ罪〉の『梵唄』の社会語が発生し、そして最後に〈天つ神〉の『経師』の国家語に統合された「書と開かれた音」が生成されると理解することができます。
 この西欧音楽と音藝としての和楽音の決定的な初源の違いは五線譜に音を記した西洋と、書を開かれた音藝の記号府として音を記した大和絵のまなざしとの違いです。
 書と聴覚イメージが非分離に体系化された音藝としての和楽音は、『こゑ=声』の眼対象としての言葉や楽器や行為のそれぞれに、『ゑ=文字』の絵が非分離に並行する「具象存在の《色=もの(模展)》」が指示される記号譜の音藝史の世界です。
 つまり言語と分離された視覚イメージの西欧絵画と、言語と非分離な聴覚イメージの音藝に対局された和楽音の芸術は、天つ神の「経師」の国家語、天つ罪の「梵唄」の社会語、国つ神の「唱導」の統治語、国つ罪の「念仏」の世界語の四つの述語意志概念で非分離に並行する大和絵と音藝の日本独自の芸術が西欧との違いとして存在することが想像されます。

四、記号符の音藝世界
 音楽素を中心に五線譜に、絵画素、彫刻素が収められるまなざしの西欧音楽に対して、画楽如、絵音律、刻彫戒の外側から、経師、唱導、梵唄、念佛の音藝が包み込む大和絵のまなざしの和楽音の違いが、透明にする西洋音楽の西洋楽譜と透明なる記号楽譜の和楽音の違いです。
 もう一つと特筆すべきは、「書の行為」が経師、唱導、梵唄、念佛と並行した技術と捉えられているところです。
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 いずれにせよ仏教、書、和歌・文学・和楽音・大和絵を一体化させて発展してきた「雅楽/声明」の平安アカデミズムの《耳》は、音藝の四つの信念の記号意識によって、仏教、書、和歌・文学の《ことばのもの》を分離しながらも、《ゑ=文字》としての大和絵と、「具象存在の《色=もの(模展)》」としての和楽音とが非分離に並行する《もののことば》の世界へと生成的に開かれていきます。
 平安アヴァンギャルドの加持祈祷に仏教の本質をみる朝廷や藤原摂関家が従い最澄さえも空海の密教(みっきょう)を真言-東密として認め、自らも台密と呼ぶ天台宗の密教(みっきょう)を、空海の国つ罪の密教(みっきょう)に学んだほど、空海は仏教を密教(みっきょう)によって牽引し、その後の四つの音藝を内包した 顕密体制(けんみつたいせい)の基盤が生成されていきました。
 平安アカデミズムの仏教、書、和歌・文学、和楽音、大和絵をに統一する「雅楽/声明」は、天つ神=「経師」の《ことばのもの》の『耳』へと生成されていった後、その一方で天つ神の《ことばのもの》の場所で「《声》のまなざし」の国つ神=「唱導」の《もののことば》の神仏習合革命を背景にした結果、鎌倉アヴァンギャルドが発生します。その起源は、[❹経師=言・生成]島国〈クニ〉天つ神時代に、[①念佛=声・発生]峡嶋〈ツチ〉国つ罪の和漢朗詠集が藤原公任によって制作されたのです。
 なせ私たちは平安アヴァンギャルドの藤原公任を鎌倉アヴァンギャルドにつながる[①念佛=声発生]峡嶋〈ツチ〉国つ罪に位置付けたのかといえば、それは和漢朗詠が国家語を超える世界語を開いたからです。現実的には[❹経師=言生成」の島国〈クニ〉天つ神の国家語として提出されたものですが、その問題の大きさは、[❷唱導=絵生成]の峡嶋〈ツチ〉国つ神の統治語としての影響力を持った平安アヴァンギャルドの機能を果たし、実質的には峡嶋〈ツチ〉国つ罪の世界語の鎌倉アヴァンギャルドの発生の出発点に立っているからです。
 公任の和漢朗詠集に見られる催馬楽や朗詠の和楽音は、呂・律の他に中曲を持つ、七声(しちせい)、五音(こいん)、五仏(ごぶつ)、五調子(ごちょうし)、三種(さんしゅ)の音藝で生成された仏教声明旋法の音楽理論(図4)を取り込んだ世界です。この声明の音楽理論を、日本音楽史家の田中健次はこれを次のように語っています。
 こうした和楽音の理論をベースにした《声明独特の楽譜があり、これを「博士(はかせ)」と呼んでいます。博士には二種類があります。音階音(五音)の高低を示すものを「五音(ごいん)博士」(墨譜(ぼくふ))、旋律の動きを視覚的に示すものを「目安(めやす)博士」(仮譜(かりふ))と呼びます。西欧宗教音楽「グレゴリオ聖歌(単旋律聖歌)」で用いられる楽譜をネウマ譜と呼び、旋律を図形であらわします。それは目安博士と興味深い一致です。現在では五音博士を使っているのは真言宗だけで、それ以外は目安博士のみとなっています。(中略)こういった声明の楽譜も、のちの平曲、謡曲や浄瑠璃などの記譜法に大きな影響を与えます。》(田中謙次『図解日本音楽史』東京堂出版76p) 現代から整理された世界ですが、示した目安博士(図3)の記号譜の例は、絵としての《文字》に「具象存在の《声=もの(模展)》」を西欧のネウマ譜のように与えて《こゑ=声》の音藝としての和楽音を指示する関係の世界です。
 また催馬楽は、遊宴や祝宴で歌われた民謡・風俗歌であり外来楽器の伴奏を加えた歌謡形式の音藝であり、朗詠は、漢詩に雅楽的な曲をつけたもので前半を一の句、後半を二の句と呼ぶ歌謡形式の音藝的和楽音です。図5はその催馬楽の特徴を表した記号譜であり、図6はその朗詠の特徴を表した記号譜であり、絵としての《ゑ=文字》に「具象存在の《色=もの(模展)》」をネウマ譜のように与えて《こゑ=声》としての音藝を指示しています。
 七五調で和楽音を音藝で繋ぐ『今様』は、雅楽の源流の「和風文化」の和歌の上に、「漢風文化」を重ねた俗謡和歌です。平安アヴァンギャルドの後白河法皇編纂の『梁塵秘抄』に「ほとけは常にいませども うつつならぬぞあはれなる 人の音せぬあかつきに ほのかに夢にみえたまふ」や「遊びをせんとや生まれけむ 戯れせんとや生れけん 遊ぶ子ごもの声きけば わが身さえこそゆがるれ」の今様があります。今様は、神も仏も見えなくなっていく民衆の拠り所であり「何せうぞ 燻んで 一期は夢よ ただ狂へ(真面目がなんだ 人の一生はただの夢 狂って遊んで過ごすがいい)」や「な見さいそ な見さいそ 人の推する な見さいそ(私を見てはだめ 二人の仲を世間が察するから)」などの応仁の乱後の「小歌」を集めた『閑吟集』の源流です。
 琵琶法師の出現もまた時の[❷唱導=絵生成]峡嶋〈ツチ〉国つ神の共同幻想が呼び起こしたものです。叩き歩きの声聞師などが[❹経師=言生成]島国〈クニ〉天つ神の国家語を広く大衆化し美を失っていたからです。国家語を統治語でより洗練することが琵琶法師の仕事であり、虎関師錬が理論化したその音藝です。
 虎関師錬は、神祇祭の雅楽と仏教の声明が融合する神仏習合革命によって失われた美の喪失を音藝の信念で再構築し理論化したのです。雅楽において管弦楽の一部を成していた琵琶は、メロディを弾く楽器ではなく、曲にアクセントをつけるリズム楽器でした。雅楽から独立した琵琶の語りの曲にアクセントをつけるリズム奏法が、声明の唱法と結びついて日本独自に語り物音藝が発生するのです。逢坂に庵をむすび往来の人を見て「これやこの 行くも帰るも分かれつつ 知るも知らぬも逢坂の関」と歌ったとされる百人一首の蝉丸(せみまる)が琵琶法師の端緒とされています。蝉丸(せみまる)にみられる平安アヴァンギャルドの盲目の琵琶法師は、唐から聞き伝えられた中国歴史上の皇帝や英雄の波乱万丈の物語を題材にして琵琶演奏を創作的に重ねて語ったわけです。琵琶法師の出現から時代をへた十三世紀半ばには『平家物語』の原型が生まれ、やがて琵琶法師によって平家琵琶が全国各地に広がっていくようになります。

五、歩(ある)き・叩(たた)き・舞いの音藝の天つ神アヴァンギャルド
 平安アヴァンギャルドと神仏習合革命は、律令制社会主義を支えた、仏教、書、和歌・文学を一つに統一する「雅楽/声明」の平安アカデミズムを解体した鎌倉音藝アヴァンギャルドに変性されていきます。
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鎌倉期の守護地頭制資本主義を開くことにつながっていきます。その律令制社会主義と護地頭制資本主義の間に[❹経師=言生成]島国〈クニ〉天つ神の音藝としての下層大衆の和楽音が自然のように出現します。
 真言声明と天台声明が別れたなかで、商人に支持された法華宗や農民や漁民に支持された浄土宗が隆盛し、そこで念仏歌や、和讃や仏教歌謡が庶民にもてはやされていきます。そのように巷に出現した民衆の音藝が、[❹経師=言生成]島国〈クニ〉天つ神の国家語を人工的に支持する声聞師(しょうもじ)、説経節、仏教歌謡、呪師猿楽です。その一方で、最下層と呼応する聖なる堂上界の頂点で、藤原定家が「新古今和歌集」を編纂し「定家十体」の歌論を表します。
 定家十体の重要性は、真言声明、天台声明や今様の和楽音と一体化した和歌の「七五調」が、絵の《ゑ=文字》と《こゑ=声》の《もののことば》の「音韻美」に押し上げられ、「散文」の『耳』の《ことばのもの》の側から、和歌の美の理論を【幽玄様・長高様・有心(うしん) 様・事可然(ことしかるべき)様・麗様・見様・面白様・濃様・有一節(ひとふしある) 様・拉鬼様】の十に分類したものであり、人工的に作り上げた[❹経師=言生成]島国〈クニ〉天つ神の国家語の和楽音アヴァンギャルドだということにあります。
 散文的な意味を何重にも嵌め込んだ《来ぬ人を まつほの浦の夕凪に 焼くや藻塩の 身もこがれつつ》の定家の歌に見られるバロック的な世界です。しかしバロック的な定家の幽玄様や有心様や長高様などの歌論は、和歌・文学を超えて、仏像彫刻や、那智滝図や人道不浄相図・六道絵や二河白道図などの大和絵の造形芸術を高く押し上げる力となります。そしてこの時代、大和絵は経師、唱導、梵唄、念仏の仏教的音藝に一致して芸術の先頭に躍り出ます。
 声聞師(しょうもじ)とは上部で藤原定家が言葉の聴覚性を重要視した頃、社会の最下層で[❹経師=言生成]島国〈クニ〉天つ神の国家語を語る、陰陽術を源流とした聖職者ではない音藝アヴァンギャルドの下層職業芸人をさす言葉です。読経、曲舞、卜占、猿楽などの呪術芸能や、新春を寿ぐ萬歳や春駒、稲の生育を祈る御田や田遊びなどの予祝(よしゅく)芸能を行う者たちです。仏・菩薩、祖師・先人の徳、経典・教義など漢文経典の読みを《和語》に書き下し読みして、誉め賛える讃歌の「和讃」や、仏典に節をつけて歌う仏教音楽の「講式」が、声明=梵唄から派生した時、「説経節」と呼ばれる節をつけて読むまさに音藝アヴァンギャルドの『経師』が出現しました。虎関師錬の音藝は、ここらあたりの声聞師(しょうもじ)の技術に開かれて一般化されていきました。
 つまり五山アヴァンギャルドの虎関師(こかんし)錬(れん)の《経師》《梵唄》《唱導》《念佛》の四つの音藝の差異とは、仏教の漢文経典を漢語で読む《梵唄》という声明のやり方に対して『和語』に書き下して語る「和讃」の《念佛》という声明のやり方があり、言葉=テキストに対して正しく説く『経師』のやり方と、声=イメージに対して創造的に導く『唱導』のやり方の四つがあると虎関(こかん)師錬(しれん)はいっているのです。
 堂上界で仏教、書、文学・和歌を一体化した「定家十体」に制度化された天つ神の《経師》を批判して、天つ罪の《梵唄》の社会語として『耳』に形骸化した「散文美」に対して、虎関(こかん)師錬(しれん)は、国つ神の『唱導』の統治語と、国つ罪の『念佛』の世界語を開き、発生的な音藝の「音韻美」の世界と捉える『経師』の国家語の場所を指し示したのです。
 時代が下った室町時代、大和国奈良興福寺では、「五ヶ所」「十座」という集団的居住地「声聞師座」を形成し、同寺に所属する音藝アヴァンギャルドの「声聞師(しょうもじ)」たちがそこに生活の根拠を置いた。つまり興福寺に所属する「声聞師(しょうもじ)」とは、猿楽(さるがく)、歩(ある)き白拍子、歩(ある)き巫女、鉢叩(はちたた)き、鉦叩(かねたた)き、歩(ある)き横行、猿飼(さるかい)といういわゆる仏教歌謡や呪師猿楽と総称される「七道芸」を行いながら、各地から流れて来た七道者を支配し、巡業手配を行った下層興行主のことです。

六、能狂言
 この時期、興福寺や春日大社や法隆寺で、四つの声聞師座の『大和四座』が、下層の歩き叩きらの[❹経師=言発生]の島国〈クニ〉天つ神の国家語に対して、[①念仏=声発生]の峡嶋〈ツチ〉国つ罪の世界語で芸を対抗する猿楽を展開し始めます。
 結崎村の「結城座(観世流)」、竹田村の「円満井座(金春流)」、坂戸村の「坂戸座(金剛流)」、外山村の「外山座(宝生流)」です。やがて結城座から観阿弥・世阿弥が出現し、円満井座から後に金春禅竹が出現します。
 しかし同時代、京(滋賀)の日吉大社では、日吉座、上三座、下三座の上層の[❹経師=言発生]の島国〈クニ〉天つ神の国家語の近江猿楽が隆盛していました。奈良の「声聞師(しょうもじ)」を京都では「散所非人(さんしょひにん)」と呼んでいます。
 そのなか[①念仏=声発生]の峡嶋〈ツチ〉国つ罪の世界語で、「猿楽=能・狂言」の世阿弥や、「一節切」の尺八で吹禅が展開され、雪舟が日本独自の水墨画を確立する時代に入っていきます。
 大和猿楽四座の結崎座の一員として、歩(ある)き、叩(たた)き、舞いを「猿楽」の[①念仏=声発生]の峡嶋〈ツチ〉国つ罪の世界語で美しく生成して、大和および近隣の各地で活躍していた觀阿彌陀仏こと観阿弥は、一三七〇年代ごろから自らの一座を率いて京都伏見の醍醐寺での演能など京都周辺へも進出していった。しかし当時の京都では、[❹経師=言発生]の島国〈クニ〉天つ神の国家語の仏教的な猿楽=田楽のほうが評価が高く、将軍足利尊氏はじめ室町幕府も田楽を支援していました。しかし、永和元年(1375)京都今熊野で観阿弥が息子の世阿弥とともに演じた猿楽能を現物した将軍足利義満は、[①念仏=声発生]の峡嶋〈ツチ〉国つ罪の世界語の猿楽の魅力のとりこになりました。以降、将軍はじめ有力武家、公家らの愛顧を得て、観阿弥と世阿弥父子が率いる観世結城一座は、幕府のお抱え的存在となりました。能・狂言の猿楽アカデミズムの成立です。
 しかし南北朝に別れた南朝=弘和四年、北朝=永徳四年(1384)観阿弥は旅先の駿河静岡浅間神社での演能ののち同地で客死します。そして世阿弥が結城座を率いて二代目棟梁となりました。この時、犬王と呼ばれた近江猿楽の日吉座の太夫道阿弥が勢力を伸ばしつつありました。

 この時の芸能の勢力図は天つ罪の田楽をすすめる喜阿弥、「物まね=現在能」の猿楽をすすめる国つ神の観阿弥、そして天つ神の「優雅」をすすめる道阿弥というように分布されていました。父の後ろ盾を失った国つ罪の世阿弥の世界語は、父観阿弥の「物まね=現在能(写実能)」を継承しながらも、天つ罪の喜阿弥の社会語と天つ神の道阿弥の国家語を超えなくてはならない宿命に立たされました。そして世阿弥は、《色=もの(模展)》を、《ゑ=文字》と《こゑ=声》で、さらに際立たせるシテ中心の[❷唱導=絵生成]峡嶋〈ツチ〉国つ神の統治語で『夢幻能』のアカデミズムを完成させました。『夢幻能』の抒情歌に生成された世阿弥の猿楽アカデミズムは、『能・狂言』として、土佐光起の土佐派の大和絵をはじめ永く日本芸術全般の規範となりました。
 世阿弥が大成し、今日に伝えている「能舞台」は、『耳』対象に、『ゑ=文字』と『こゑ=声』の眼対象が包括される《音=こと(呼途)》の五線譜で捉えられうるもにになっていますが、『こゑ=声』の眼対象としての個別のコトバや楽器や行為のそれぞれに、『ゑ=文字』が振り当てられる、《色=もの(模展)》を指示する経師、唱導、梵唄、念佛の音藝の表現が生み出す大和絵の淀み、垢、汚れ、悪態の美学に通じる国つ罪(世界語)/国つ神(統治語)としての世界です。箏曲家・釣谷真弓はそれを次のように語ってくれています。
 【開幕するとまず四人の囃子方が、橋掛(本舞台までの手すり付き廊下)から登場、所定の位置につく。能舞台の正面奥、鏡板の前を「囃子座」といい、向かって左の方から太鼓・大鼓(おおかわともいう)・小鼓・笛(能管)が並ぶ。大鼓と小鼓は床几に腰掛けている。次に、舞台右奥の「切り戸口」から地謡、つまりコーラス隊のメンバーが出て、三間四方の本舞台の右側にはみ出た部分「地謡座」に脇正面を向いて座る。この四つの楽器とコーラスが芝居を誘導し、主役(シテ)を舞わせるのである。
 声楽である謡は大きく分けて、旋律をともなう「フシ」と抑揚をつけてしゃべる「コトバ」の部分からなる。単純にいえば歌と台詞である(略)。しかし、フシのなかにも武将や神などが力強く歌う「強吟」、繊細にやわらかく発声する「弱吟」の区別がある。(略)ストーリーの内容を聞かせるよりも、演者の声色、表現性を重視しているのである。
 同じ意味で、楽器も洋楽でいうハーモニーを形成しているわけではない。笛(能管)もメロディーを奏でるのではなく、打楽器と同じリズム楽器として使われている。(略)二種の鼓では、普通の楽器ならば大型のほうが音が低くなるが、左ひざの上にかまえる大鼓のほうが「カーン」という鋭く高い音を出す。厚い馬皮を強く張り、指に指皮をはめて打つからである。
 ここで楽器と同じくらい重要なのが、「ハッ」「ヤッ」「イヤー」というかけ声である。音楽の一部であり、間や発声がうまく決まらないと雰囲気が台なしになってしまう。(略)
 特に、クライマックスを迎えると、舞とともに笛と三種の打ち物(打楽器)がテンポを速めて競うように吹き、打ち鳴らす。そして「イヨーッ」というかけ声、「ポン」と止めの一音が一瞬のズレもなくピタリと決まる鋭さ、まるで日本刀で空気を切り裂いたようなゾクッとする瞬間である。
 全ての演技を終えて最後の演技者が場幕の奥へ消えると、後見方が作り物(舞台で使う大道具)を運び出し、囃子方が橋掛から、地謡が切戸口から順に粛然と退場する。そして再び舞台上に何もない「無」になったときが能の終焉である。】(釣谷真弓『おもしろ日本音楽史』東京堂出版社96~99p)
 一四〇〇年三十八歳の時に『風姿花伝』を記述したあと、嫡子・元雅に先立たれ、七〇歳近くなってから佐渡に流される悲惨な人生を締めくくることになった世阿弥でしたが、その規範的な「能・狂言」の[唱導=絵・発生]の国つ神の統治語は猿楽アカデミズムの理論書として、釣谷の「能舞台」の描写に見られるように、永くその生命力を保って今日まで伝えられているのがわかります。釣谷は、世阿弥の「その後能楽は武士の芸として支えられ、発展した。江戸幕府によって認められた四座に、のち喜多流が加わって、観世・宝生・金春・金剛・喜多の五流派のシテ方が今日まで続いている」と語っています。

七、尺八
 歩くや叩くや舞うと共に、「吹く」という身体行為の尺八もまた[①念仏=声発生]峡嶋〈ツチ〉国つ罪の世界語の音藝として誕生しました。雪舟などを通じて、「具象存在の《色=もの(模展)》」の和楽音は水墨画の淀み、垢、汚れとともに、「音韻美」を表出する音藝の楽器が「尺八」です。
 初心者が旋律はおろか、決して「音」を鳴らすことさえできない、竹筒に五つの穴を開けたロ・ツ・レ・チ・ハだけの違いの中で、演奏の難しい穴を抑えた指で半分開けたり、顎のわずかな角度の違いで無限の音を奏でる国つ罪の楽器です。それだけ記録は少なく、平安時代に「古代尺八」として、中世に「一節切」として尺八が存在していたことが明らかですが、尺八としての楽曲は十八世紀中頃になって黒沢琴古(くろさわきんこ)(1710-1771)によってやっと成立します。黒田氏(くろだし)の家臣の黒沢幸八は、臨済宗の一派で神仙(仙人)伝説の逸事と共に尺八を吹きながら、[⑧念佛=声発生]峡嶋〈ツチ〉国つ罪の虚無僧生活をする普化宗に入信し黒沢琴(きん)古(こ)と名乗りました。つまり楽器ではなく「法器」としての尺八を吹きながら「禅修業」する「吹禅」を重ねながら尺八曲の収集、整理を行い、琴古流として三〇余りの尺八曲制定し普化尺八の基礎を築きました。
 吹いて音を鳴らすことそのものが困難な「尺八」が「一節切」と呼ばれていた時代、禅僧で水墨画絵師の雪舟等楊が「一節切」を、風雅の嗜みとして吹いていたという記録があります。
 雪舟等楊は「一節切」を単なる風雅の嗜みとしてではなく、峡嶋〈ツチ〉国つ罪の水墨画の描く身体行為としての淀み、垢、汚れの発生の偶然性を、[①念佛=声発生]峡嶋〈ツチ〉国つ罪の「一節切の吹禅」の身体行為に一致させることで、「具象存在の《色=もの(模展)》」の音藝としての淀み、垢、汚れ「音韻美」の偶然性の発生に一致させようしていたに違いありません。尺八の吹禅の精神は、狩野正信や元信の狩野派の大和絵の源流として流れているものです。

八、琵琶、三味線、箏の展開
 絵師が《声=こゑ》と《文字=ゑ》による聴こえない『耳=模展』の表現を展開するもののことであるなら、盲目の検校(けんぎょう)とは《声=ゑ》と《文字=ゑ》による、見えない「具象存在の《色=もの(模展)》」の表現を展開するもののことです。
 明治に西欧医学が隆盛するまで日本では「目病み」は治る確率の低い深刻な病であり、盲人になってしまうケースがほとんどでした。そこで近世まで、盲人の保護・統括組織が存在しました。佛光寺北の洛央小学校前に、「盲人総取締所 当道職屋敷(とうどうやしき)址」と刻まれた碑があります。
 盲目であった仁明天皇(にんみょうてんのう)の皇子人康(ひとやす)親王が山科に隠遁して盲人を集め・琵琶、管弦、詩歌を指導しました。人康(ひとやす)親王の死後、仕えていた盲目の者に座頭(ざとう)・勾当(こうとう)・別当(べっとう)・検校(けんぎょう)などの官位を与えた故事により当道座の最高の官位は検校(けんぎょう)とされました。
 琵琶による語り物の端緒である琵琶法師の蝉丸(せみまる)の後、多くの琵琶法師が出現しました。そして鎌倉時代、琵琶を弾きながら「平家の物語」を「語る」語り物音楽が、経師、唱導、梵唄、念佛の音藝とともに流行します。琵琶法師が語った「平家の物語」を筆録して読み本にまとめられて、それが『平家物語』になったと言われています。つまり盲目琵琶法師の「具象存在の《色=もの(模展)》」による《こゑ=声》が《ゑ=文字》になった物語が『平家物語』ということです。
 『平家物語』の演奏者である「平家座頭」は、源氏の長者である村上源氏中院流の庇護と管理に入っていき、『平曲』と呼ぶこの物語を『平家』と呼称しました。
 つまり[❷唱導=絵生成]峡嶋〈ツチ〉国つ神の統治語の五山アヴァンギャルドの虎関師錬や阿弥派アカデミズムと同位相の『平曲琵琶』の出現です。虎関師錬が音藝としての語り物の極意を、聞く者が泣く前に、自ら感動し先に泣く【先泣の誉】の主体化の自己のテクノロジーを音藝とするものです。
 「徒然草」によれば『平家』は、当時、世間に流布していた平家一門の話を、雅楽の信濃前司行長(しなのぜんじゆきなが)が整理し、盲目僧の生仏(しょうぶつ)に語らせたものが、琵琶法師の間に広まったものとされています。その後、『平家』の物語展開には琵琶法師、説経師、公家たちの音藝よって、挿話や新説が取り入れられ、それぞれに独自な語り物がつくられていきました。そして室町時代、一方(いちかた)座の検校である明石覚一(あかしかくいち)が『平家』の規範(スタンダード)となる「覚一本」をまとめました。覚一は足利尊氏の師弟で中年まで播州・書寫山の僧でしたが失明し琵琶節となり、自分の仏光寺東洞院の職屋敷に当道座を設立し、みずから惣検校となり明石検校ともいわれています。田中健次は琵琶法師の日本音楽史への影響を次のように語っています。
 《当時まだそれほど昔の話でもない、琵琶ふしの語る源平合戦や平家の公達の哀れな物語は、文字を読めない民衆にとって最大の娯楽として大人気を得ます。そして平曲は後世のさまざまな文芸・音楽・芸能へ影響を及ぼします。平家の物語が世に受け入れられるほどに、能や浄瑠璃、歌舞伎の世界では、よりわかりやすいビジュアルな演出が付加された、平家を題材にした芸能を創出しました。こういった芸能が受け入れられるほどに、皮肉にも源流の平曲そのものが衰微されていくことになります。そのため当道座の琵琶法師はたちは、盲人芸能の表芸であった平曲から離れ、三味線によって生まれた地歌や浄瑠璃、あるいは箏曲などへと転出して行くことになりました》(田中健二『図解日本音楽史』東京堂出版130p)といっています。

九、箏曲と三味線の関係
 「コト」という言葉に琴と箏のふたつの漢字があることについて釣谷真弓は、『宇津保物語・俊蔭』に出てくる「琴」は七弦の楽器で、中国からやってきて平安移行期にほとんど廃れていたものですが、音藝を純粋な和楽音に統一して江戸後期に再びわずかに弾かれるようになった一弦琴や二弦琴の素朴なものであると言っています。そして現在「こと」と呼んでいる十三弦の楽器が「箏」であり、箏の音楽のことを箏曲と呼ぶようになったといっています。また、日本の箏、韓国の伽耶琴(カヤグム)、ベトナムのこと、モンゴルのこと、弓で弾く韓国の牙箏(アジエン)、中国の洋琴(ヤンチン)などが集合した『アジアの響き』というアジア音楽祭に箏奏者として参加した釣谷真弓は、元は中国の雅楽からでた兄弟の楽器の中で、漢民族の影響を受けた日本の十三弦と韓国の十二弦という似たような「こと」を弾く両国は血の濃い兄弟の民族であることを認識されられたといっています。奈良時代に伝来した箏は「管弦」という合奏形式の一つの楽器であり、メロディーを奏でたわけではなかったといい、それが平安末期から鎌倉初期の寺院歌謡の中に雅楽の「越天楽(えてんらく)」の旋律に別の歌詞をあてはめて歌った「越天楽謡物(えてんらくうたいもの)」と云われたそれが、後に箏曲の歌詞となり、それが室町期になって「箏曲」と呼ばれる音藝に発展したものだということです。
 釣谷真弓は、現代の箏曲の祖は、室町末期、九州・久留米の善導寺の賢順(1547頃-1636頃)という僧であるといっています。つまりここで[⑩梵唄=呪発生成]島国〈クニ〉天つ罪の主体化としての賢順の「箏曲」が出現したということです。
 なぜ京の都の箏の楽器と演奏が九州に伝わったのかという理由を、釣谷は次のように想像しています。
 【本州・下関と九州を結ぶ関門橋の上から見下ろす海峡は、とても潮の流れが早い。源平の合戦が、潮流の変化によって勝敗が決したというのも実際に見ると納得できる。この合戦で壇ノ浦の海の上におびただしい武具、船の在外が浮かび、数しれない武者が沈んだ。平氏は幼い安徳天皇とともに多くの女官を引き連れていた。女性も例外でなく、愛面を色鮮やか内儀と黒髪で染めて、海の底へと旅立った。しかし生きながらえて落武者となった者たちは、多くが北九州に隠れ住んだ。以前は、都で貴族のような生活を送っていた平家の人々である。彼らによって雅楽や箏の音楽がかの地にもたらされた。満足な楽器とてなかったであろうが、昔と同じ月を仰いで栄華の日々をしのびながら、深い里の調べを奏でたのだろう。また、北九州は地理的にも古代から朝鮮半島との交流が盛んであった。賢順が中国の琴楽を学んだのは、九州に渡来した明人・鄭家定(ていかてい)といわれている。】(『おもしろ日本音楽史』122~3p)
 そもそも寺院芸能の音藝の一つとして行われていた「越天楽歌(えてんらくうたいもの)」の歌曲を、組歌形式の箏伴奏のものに編集したのが、筑紫善導寺の僧・賢順であり、明人鄭家定(ていかてい)に学んだ中国七弦琴の基盤に、善導寺に伝わる雅楽や箏伴奏でその旋律歌謡の楽譜を整理して「詠曲」などを作曲し、箏伴奏の歌曲を大成したとあります。その際、平家の落武者たちが奏でる箏を参考したに違いないと、釣谷真弓は想像しているのです。筑紫流箏曲と呼ばれて人々に知られました。後に還俗し諸田蔵人賢順斎と号し、豊前の大友宗麟に仕えましたが、宗麟がキリスト教に帰依したために、肥前南里(佐賀県)の正定寺に逃れ、三八歳で小城郡多久の竜造寺安順に招かれました。北九州および江戸の佐賀藩人などに伝承されるとともに、江戸に向かった門下の法水を経て、江戸箏曲の大成者・八橋検校(やつはしけんぎょう)以降の箏曲の源流となりました。
 四つの音藝を統一した江戸時代を代表する和楽音の楽器は箏の八橋検校アカデミズムと三味線アヴァンギャルドに二分されます。つまり、三味線アヴァンギャルドは、八橋検校アカデミズムに洗練される以前の賢順の筑紫箏と同様に[⑩梵唄=呪発生成]島国〈クニ〉天つ罪の主体化として出現しました。
 三味線の先祖は、元代(13-14c)に使われはじめた三弦で、これが十五世紀に琉球に伝わって三線(蛇皮線)となり、さらに十六世紀の永禄年間(1558-70)に明・琉球貿易の拠点であった泉州・堺に入ったと言われています。渡来した三弦にさっそく興味を示したのは、盲人組織の当道に属し『平家=平曲』を語ってきた琵琶演奏家たちでした。三弦・三線は訛ってサミセンとなり三味線の字が与えられました。三弦改め三味線の音域は琵琶よりも広いうえ、琵琶のような柱(フレッド)もないため、旋律をより滑らかに弾くことや、さまざまな音階を自在に弾くことが可能になりました。さらに胴に柔らかい犬猫の皮を用いて太鼓のような膜の振動で音を出す、旋律も弾け膜鳴楽器のようなリズム効果を得られるようになりました。
 その受容の速さは、日本初の三味線音楽であり、最初の三味線アヴァンギャルドの伴奏による声楽曲の「三味線組歌」という「地歌」が渡来後わずか二〇~三〇年で作られていることにあります。
 それは地歌が言葉の意味よりも音楽の自己表出性に同意を求めるからです。
 「三味線組歌」の最初に成立した地歌の 《に成立した琉球組(全六曲)の次の一、二番は。
一、 比翼連理よの天に照る月は、十五夜がさかり、あの君さまはイヨ、いつもさかりよの。
二、 おひを滋賀のエイ 松の風ゆゑに しなで焦るる しなで焦るる。
 のまはイヨ、滋賀のエイは、全てを自己表出ニッみ出ています。
 「えー」と長くのばし、それにいくつもの音をあてて、さらに「えー、えー、えーえー」には自己表出の同意を求める表現です。イヨ・エイ・ソレ・ノウなど囃子詞も自己表出からの同意点を求める表現です。
 音の言葉としての自己表出としての音藝の特徴です。
 三味線アヴァンギャルドは三味線の手軽さ言葉の音藝として、あっという間に庶民の間に広まりました。江戸初期には流行歌の江戸小歌に三味線伴奏がつく「地歌」となりひろまりました。因みに地歌もまた[③梵唄=呪・発生]島国〈クニ〉天つ罪の主体化の社会語であり、端歌は短い地歌を指し、長い地歌を長うたと呼ばれました。わたしたちは三味線と切っても切れない「地歌」を、後に浄瑠璃と密接な関係を持つ浄瑠璃三味線と区別するために地歌三味線と定義していますが、地歌という概念は明治以降の概念で、上方で端歌や長歌、江戸で端唄や長唄と呼ばれたものです。この時代、琵琶法師の重たい響きの琵琶から手軽で明るい音の三味線アヴァンギャルドの三味線に乗り換え、物語草子に書かれた「浄瑠璃姫物語」を題材に語るようになり、これがやがて「三味線」による物語音楽種の《浄瑠璃》を形成することになります。この《浄瑠璃》が操り人形と手を組んで近松門左衛門と竹本義太夫の合作による、太夫、太棹の三味線、人形使い三人の五人が自己表出の息を合わせる『曽根崎心中』などの「人形浄瑠璃」が誕生することになります。またその約百年前に、出雲阿国という女芸能者が三味線を用いた三味線アヴァンギャルドの「歌舞伎踊り」を始めています。歌舞伎は狂言と舞踊に二分されながら、元禄歌舞伎、享保歌舞伎と生成し天明歌舞伎で[❹経師=言生成]島国〈クニ〉天つ神の国家語の主体として大きく隆盛しました。
 賢順の後、上方で[③梵唄=呪発生成]島国〈クニ〉天つ罪の社会語の三味線と胡弓で三味線アヴァンギャルドの主体化の名人として知られていた若い八橋検校が、寛永年間のなかごろ江戸にでた時、江戸に来ていた賢順門下の法水から筑紫箏曲を習いました。そこには三味線アヴァンギャルドから捉えた箏曲の新鮮な八橋検校のまなざしがあり、箏曲を、雅楽から完全に独立させる八橋検校アカデミズムの生成がありました。つまり[❹経師=言生成]島国〈クニ〉天つ神の主体化に目覚めた八橋検校アカデミズムです。八橋検校アカデミズムは、雅楽や筑紫箏曲が使わないことになっていた「平調子」を、箏曲のなかに取り入れて、定めてみせたのです。
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 平調子とは、ラ・シ・ド・レ・ミ・ファ・ラという陰音階に「田舎節」と「都節」を統一した調弦です。新しく、そして「箏」という楽器にとって最も相応しい調弦法を八橋検校アカデミズムが近代的(モダン)な和楽音として生成してみせたのです。ここには仏教の声明からも神祇祭の雅楽からも完全に自律した、八橋検校アカデミズムの近代的(モダン)な和楽音があります。
 そしてやがて宗達の商品が光悦の資本に生成されて生まれてくる「光琳のゑのまなざし」の大和絵アヴァンギャルドによる『燕子花』や『八つ橋蒔絵』に、時代を前後して呼応する八橋検校アカデミズムの『六(ろく)段(だん)の調(しらべ)』が生まれるのです。
 このような音藝を完全な和楽音に整理した八橋検校アカデミズムの近代性が成立したのは、[念佛=声発生]峡嶋〈ツチ〉国つ罪、または[唱導=絵生成]峡嶋〈ツチ〉国つ神、または[梵唄=呪発生]島国〈クニ〉天つ罪、または[経師=言生成]島国〈クニ〉天つ神の四つの主体化を、差異として表出する世界を、念佛の峡嶋〈ツチ〉国つ罪の発生と、唱導の峡嶋〈ツチ〉国つ神の生成で構成する二つの『田舎節の陽音階』と、梵唄の島国〈クニ〉天つ罪の発生と経師の島国〈クニ〉天つ神の生成で構成する二つの『都節の陰音階』に分けられる世界が出現していたからです。
しかし田舎節の陽音階は、陽音階の強い音の世界が、陰音階を消している世界であるのに対して、都節の陰音階は、陰音階の弱い音の世界から強い陽音階を包む可能性の世界です。
 まさに八橋検校の『平調子(図8)』の調弦は、[梵唄]の島国〈クニ〉天つ罪の発生と[経師]の島国〈クニ〉天つ神の生成で構成する二つの「都節の陰音階」が、陰音階の間に、[念佛]の峡嶋〈ツチ〉国つ罪の発生と[唱導]の峡嶋〈ツチ〉国つ神の生成で構成する二つの「田舎節の陽音階」を緻密に包み込むことで、神仏習合を脱して西欧音楽に匹敵する、豊かな「抽象存在の《音=こと(呼途)》」の世界を生成したものであるといえるでしょう。
 ほとんどが声楽の音藝といっていい日本の和楽音にあって、「三味線組曲」からヒントを得て、全部の弦を一度に弾いて三番または四番だけの弦の余韻を残すように他の弦を左指で押さえる「すががき」や、細かく畳み重ねる「りんぜつ」などを用いて、十三曲の「箏組歌」いわゆる「八橋の十三組」が、「段物(たんもの)」または「調(しら)べ物(もの)」と言われる器楽曲として作曲されたのです。そのうちの一曲が音楽としての和楽音である八橋検校アカデミズムの『六段(ろくだん)の調(しらべ)』です。
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新しいまなざし論へ

 ユーチューブや解体したサブカルチャーの瞬間芸で、あらゆる個人的なプロの表現が高度なシステム画像に無化同一化される中で、一枚のカラー印刷物が相対的に高度な芸術性を帯びる。速度の速さが価値をつくると同時に膨大な目撃の中で差異が薄れ無価値化され壊れる現在、もう古典となったB倍5〜6色刷り印刷ポスターは、神話を創り出しながら浮世絵レベルの羨望を集めて世界の視線を独り占めしている。
 私はそのポスターを、「きこえるふれるみる」
というタイトルで、神話の詩にしてみた。
因幡の白兎が出てくるから神話なのではない。写真が神話的理解を求めていることから自然と神話になった。
 しかし、時代は速度の転換を神話に求めている。
  鬼の洗濯板のような鰐の浜辺。すぐに稲葉の白うさぎの話をおもい出しました。
 数を数えると偽って、ワニを並ばせて海を渡った話です。
 しかし、この海の景色は遠くで波が砕け、外海と内海を分けて、手前には小さな日常国家の場所を作っています。
 画面上下は正確に七等分されて、その水平線は向こうの空を一面とし、遠近法のリズムでとらえられています。
 中央の高い水しぶきは、外海国家の攻めよせる合図にも見えますし、防御にも見えます。何れにせよ何艘かの船が行き交っている時代の予感をもたらしています。 コピーは「やさしい人に会いたい日です」
 それは外界を遠くに見て、てまえの入り江に浮かぶ安全で豊かな大地にボトルがたち、自分たちの場所の国家を表象しています。
 国家とは共同性であり、やさしい仲間と、場所の共有をしようじゃないかと語っています。
 月の引力で騒がしく運動する地球の波を見つめながら、カメラマンはボトルと水平線と中央外海の波しぶきが一致する場所でストッパージュ(停止装置)のシャッターを切っています。手前に回り込む流れの波の泡がiichikoと、やさしい人に会いたい日です。の平行遠近を完成させています。つまり、写真は波しぶきのの瞬間を止めていますが、ボトルやいいちこロゴや「やさしい人に会いたい日です」のコピーは、停止した写真に動きと時間の了解性を与えているということです。
 いや逆かもしれません。
 「やさしい人に会いたい日です」といいちこロゴやボトルが、遠近法の映画的写真の中でうごきだしているのかもしれません。
 しかし本当は、写真にとられた生な時間を、「やさしい人に会いたい日です」や、いいちこロゴやレイアウトの作業の中で、写真の映画的な空間の本質を生成させているのかもしれません。
 もしかするとおおきな鰐の背のような岩の上の平和は、白い飛沫に表された因幡の白うさぎの計略に気づいていない「やさしい人に会いたい日です」と言って、数え上げるの待っている優しく強い鰐のことなのかもしれません。

新しいまなざし論

瞳は外界と網膜と対称点にある
gogatusyasinn
SKUWARATAKARSAGASI

瞳は外界と中天にある宇宙の中心である。
gogatusyasinn

瞳はトキメキやムナサワギやセメギアイととして発光する光である。

まなざしの論理no.19=X04

まなざしの論理no.19=X04
和風絵画の若冲と和製洋画の江漢、草枕にそって(04)


三種の詩器と現代美術=現代詩→和歌→俳句

 わたしたち日本の美術家は、第二次世界大戦後、西欧のダダ・シュールレアリズム芸術を移入したアメリカで、抽象表現主義とその代表的存在であるジャクソン・ポロック(1912-1956)を擁護し、「ポスト・ペインタリー・アブストラクション」運動を理論的に主導した美術評論家クレメント・グリーンバーグ(1909-1994)が定義する「非形象の美術表現」を《現代美術》と呼んでいる。
 《現代美術》は、アンドレ・ブルトン(1896-1966)のシュールレアリズム的な「定型」に対立する、ダダイズム的なトリスタン・ツァラ(1896-1963)の「非定型」として発生し、様式的には情報の物質化としてのポップ・アート、物質の情報化としてのミニマル・アート、概念の物質化としてのコンセプチュアル・アートの三つの「定型」に収斂されるなかで、さらなる「非定型」を巡る、理論的または行動的な活動となっている。ミシェル・フーコー(1926-1984)は、非定型のアメリカ現代美術に収斂される西欧現代芸術を、十九世紀ヴィクトリア朝において確立される夫婦の寝室の「生産的な性」の権力秩序に支えられたカント的な純粋理性の真・善・美を、より徹底してみせる、サド的な非定型の真理・知識・権力に生成したものであるとしている。
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 非定型としての日本の《現代美術》は、非定型の《現代詩》の状況と同じように、和と洋を折衷する伝統的な表現(例えば日本画や能・狂言や邦楽)のもとにまとまろうという流れの折衷派と、伝統的な表現を否定して文明の先端である西欧そのものに変質てしまおうという西欧派の二つの流れがある。
 西欧の行き詰まりが明らかな今日、日本の《現代美術》は、西欧的なものと、伝統的な表現(例えば日本画や能・狂言や邦楽)を折衷するという傾向が強く現れている。
 詩を書くことと考えることの間に生まれる吉本隆明(1924-2012)の《現代詩》の問題は、短歌や俳句の伝統を捨てて西欧の現在を注釈するモダニストの西欧主義の非定型でも、西欧口語詩と和歌・俳句・能という日本伝統を折衷する伝統主義の非定型でもなく、定型を否定し非定型を生成する定型から非定型への移行的生成の行為のことである。現代詩から短歌へ、短歌から俳句へ、俳句から現代詩へという定型から非定型への移行を『現代詩』の本質として吉本は、「現代詩、短歌、俳句」を「三種の詩器」としている。そこでわたしたち美術家も《現代詩=現代美術》として、吉本に習って三種の詩器の差異を考えてみたいとおもう。
 現代詩、短歌、俳句の三種を、日本の詩の在り方として、古代には、短歌と長歌が共存し、中世には連歌と短歌が共存し、江戸期には俳句、短歌、漢詩が共存したと語る吉本隆明は『明治以前においては、短歌、俳句、連歌、長歌の形式的な差異は、詩の形式上の差異と、そこから派生する詩意識上の差異として理解しうるものであった》が、《現在の、現代詩と、俳句、短歌の相違は、形式上の差異や、定型、非定型の差異としては論じられない断層がある(傍線筆者)』という。そして《この断層は、本質的には、美術における油絵と日本画、音楽(長唄、じょうるり、琴曲、びわ)との断層と同じである》というわたしたち美術家にとって無視できないまとめ方をしている。
 『日本の現代芸術の特徴である』この断層では共同幻想と国家幻想のあいだで、いつでも『折衷乞食』の努力がなされていると同時に『西欧乞食』の努力がなされていると吉本はいう。
 『たとえば、油絵の画家が日本画の手法を取り入れ、日本画の画家が油絵の手法を取り入れ、琴の師匠が西洋音楽の要素を取り入れ、西洋音楽家が日本音楽の要素を取り入れ、現代詩人が伝統的な発想と語法を取り入れ、歌人や俳人が現代詩の手法を取り入れる』折衷乞食の努力であり、『本人は、インターナショナルな世界性を目指しているつもりで、架空の「無国籍」に陥って』『本人はアブストラクトの詩人や画家だとおもっているのに、実は〈架空のアブストラクト〉であったり、日本固有の古くさい感性をモダンな衣裳に染め上げているに過ぎない』西欧乞食の努力であると吉本はいうのである。
 『日本の近代社会の発展過程』を、折衷乞食は西欧近代と日本本来とが対立し折衷してゆく過程と考えており、西欧乞食は日本の近代化=西欧化とかんがえているが、しかし吉本は、その表面的ないずれの見え方も正当ではないという。
 そして吉本は『日本の近代社会における、伝統的なものと西欧的なものとは、盾の両面のように存在すると考える』。しかし加藤周一などの規範的な批評家が、翻訳物を読む前に〈人麿から茂吉までの三十一文字を読むべきである〉という知識人の説教を吉本は大衆にとって無意味なおせっかいと退ける。
 そしてそれを吉本は次のように語った。

 ◎日本の伝統詩形が、如何なる意味でも、現代詩の問題に、何かを寄与するとは考えていない。伝統詩は、全て否定されなければならない。しかし「否定」するというのは、西欧乞食のように、伝統詩の無関心なのとは全く違うことを断っておかなくてはならないとおもう。「無関心」は恒久的に「無関心」であり、「否定」は、恒久的に「関心をもつから否定」である。
 今日、歌人、俳人中の革新派は、わたしの考えのカテゴリでは、折衷乞食に入るだろうから、その努力の実り多からんことを願うし、その努力が優れた作品を生むかも知れないことを認めるが、窮極のところでは、否定するより仕方がない。お世辞など云う気もしない。(中略)伝統詩形である俳句や短歌のうち、わたしたちが問題とするに価するのは、五・七・五や五・七・五・七・七ではなく、「定型」だけである。「定型」というのは、七・五調の組み合わせとは無関係で、日本語格の言語学的本性とだけ関係するものであり、それは、日本文の構成や意味と切り離すことができない性質をもっている。わたしは、日本の詩のうちこの「定型」だけは、無視できないし、容易に変ることはあるまいと考える。
 ◎吉本隆明『叙情の論理』未来社337p

 吉本は、伝統に対して恒久的に「無関心」なモダニストの西欧乞食の詩人らが、加藤周一ら規範的な批評家をすり抜けることで「無国籍」となり、その一方で、詩人の内部の世界と現実との格闘によってしか生まれないにも拘わらす、伝統主義の折衷乞食の詩人らは、日本語格の言語学的本性を問題を、象徴派の詩人たちが、漢語の視覚と音感効果および七・五調の複雑化によって詩の思想性の複雑化を企てようとしたように、形式と内容の分裂と内容軽視のコトバの格闘に赴くことで、日本文学全般の主導的な位置から転落したことに一致しているという。
 日本の近代詩が定型から非定型に踏み込む現代詩に移行する過程で、五・七・五・七・七の短歌と五・七・五の俳句の、原始律五・七調と、そこに表現される感性の秩序とにたいして、変革の意識が生まれる。それは単に、五・七・五・七・七の短歌と五・七・五の俳句を定型として、音数律を解体すれば非定型が出来上がるという単純な問題ではないと吉本はいったのである。
 吉本は、詩人の内部の世界と現実との格闘としての人間のこころのうちの世界を描く韻律・選択の現代詩を〈詩〉に位置づけ、複数、少なくとも二人の韻律・選択の相聞歌として生まれたそれに転換・喩が加わる和歌としての〈物語〉、転換・喩の場面が自ずから語り、動き、自ずから韻律・選択を関係する俳句としての〈劇〉という、短歌の五・七・五・七・七と俳句の五・七・五の音数律を超えた詩→物語→劇の本質を構想し「非定型」を模索するのである。つまり三種の詩器とは、現代詩=詩→和歌=物語→俳句=劇としての構造が、「定型」から「非定型」に発展的に脱構築の構造のことである。
 美術の折衷乞食と西欧乞食を脱出するために、わたしたち美術家は、現代詩=詩→和歌=物語→俳句=劇の構造を軸に、その写生としての大和絵の絵画の論理を独自に組み立てなくてはならないだろう。
 吉本は「詩(韻律・選択)→物語(転換・喩)→劇(韻律・選択)」をアフリカ的段階を人間以前としたアジア的段階とギリシア的段階のヘーゲルの「歴史哲学」の段階論に重ねた。
 ヘーゲルからみれば、明治維新の天皇を中心とした立憲君主制の成立は、アジア的段階からギリシア的段階への世界史的な移行であり、それが明治以後の折衷乞食の伝統的知識人と西欧乞食のモダニスト知識人の日本芸術の状況をつくりだしたのである。
 江戸の劇的述語帯を脱して、ギリシア的段階の解体としての西欧的段階に一致しようとする明治新体詩の西欧詩的述語帯に突入した日本は、移入された西欧・詩的述語帯で「新聞=詩的述語面→ラジオ=物語的述語面→テレビ=劇的述語面」へと解体していった明治→大正→昭和の「日本の大衆」と、そこを折衷乞食と西欧乞食の対立で生き延びる「知識人」の構図を示したのが吉本の『叙情の論理』である。しかし、西欧・詩的述語帯で「新聞=詩的述語面→ラジオ=物語的述語面」が生み出した太平洋戦争の後、世界を知らなかったと自戒する吉本は、獲得したヘーゲル=マルクスの論理から、すでに時代が西欧・詩的述語帯の「テレビ=劇的述語面」に入り、現代西欧がギリシア的段階の解体としての劇的述語面の西欧的段階に覆われていることを知ることになる。
 折衷乞食の伝統的知識人や西欧乞食のモダニスト知識人が、解体としての劇的述語面の西欧的段階を、アジア的段階の解体の知的特権として時代に調和するなか、既に西欧・詩的述語帯の「テレビ=劇的述語面」において生活する日本の大衆は、アジア的段階とギリシア的段階を折衷する伝統的知識人やアジア的段階をギリシア的段階に啓蒙する西欧化のモダニスト知識人の頭を超えて解体する西欧的段階の状況に晒されていると吉本はいう。つまり、アジア的段階とギリシア的段階の区別を生きる折衷乞食や西欧乞食の生きる場所は古臭い大学アカデミズムの以外にはなく、西欧・詩的述語帯の「テレビ=劇的述語面」に投げ出された大衆は解体する西欧的段階を生きる自己技術としての自己のテクノロジーを模索しているというのである。
 西欧を対象化する現代知性=ミシェル・フーコーは、真理と知識と権力の空間的な三位一体を自己のテクノロジーに掲げ、日本大衆を対象化する現代知性=吉本隆明は、真理=詩→知識=物語→劇=権力の時間的な三位一体を自己技術とする。
 そしてフーコーが博物学=生物学/一般文法=言語学/交換すること=経済学の相反的規制性を臨界的な知の空間的な構図として示したのに対して、吉本は、科学としての生物学に対応する哲学としての『心的現象論序説』を、科学としての言語学に対応する詩学としての『言語にとって美とは何か』を、科学としての経済学に対応する社会学としての『共同幻想論』を書き上げる。そして知=言葉の極限を非知=物に設定し、非知=物のアプリオリな出現を詩とし、知=言葉の物語、社会関係の劇へ発展すると考えることで、ヘーゲルが物語的段階のアジアや、劇的段階の西欧の人間以前として排除したアフリカ的段階の詩的構造があるとする。
 そして吉本は、現代の解体する西欧的段階の行き先を、へーゲルが排除したアフリカ的段階に設定する。つまり解体する「劇的述語面」で発展する〈科学テクノロジー〉と一体化した西欧的段階は、アジア的段階やギリシア的段階の世界の現在をどこまで引き上げていくだろうが、その一方で、芸術や言語としての〈精神カルチャー〉は、再び人間以前の植物性・動物性としての「詩的述語面」のアフリカ的段階に回帰せざるをえない状況にあるといったのである。
 ここでわたしたち美術家は、詩を「こゑ」の耳の楽音的行為、物語を「ゑ」の目の図画的行為、劇を「もの」の手の像造的行為に対応させることができ、手の劇の像造において、〈模展(もの)のことば=S(エス)〉のシニフィアンと〈ことばのもの(模展)=it(それ)〉のシニフィアンのふたつの物と言葉の非分離なシニフィアンの体系が作られたことを知ることができる。
 そして《現代詩》と《現代美術》を同位相とする思考と行為の隙間で「批評と注釈」の活動が、「こゑ」の耳の楽音的行為としてはじまり、次に「ゑ」の目の図画的行為が生まれ、次に「もの」の手の像造的行為が、〈模展(もの)のことば=S(エス)〉のシニフィアンと〈ことばのもの(模展)=it(それ)〉のシニフィアンのふたつを名ざす彫刻素、彫刻戒、刻彫戒が生成され、西欧絵画のまなざし、中国山水図のまなざし、大和絵のまなざしとして三つのまなざしの種別化が生成されることになる。

 そこで西欧絵画のまなざしが視角九〇度の音楽素を中心にして、中国山水図のまなざしが視角六七、五度の絵画律を背景にして、大和絵のまなざしが視角六七、五度の絵音律を本質にして、終止形な形容詞表象の「こゑ」の耳の楽音的行為が詩的述語帯で成立し、その端緒としの「詩的述語面」が改めて出発する。
 そして西欧絵画のまなざしは透明にする視角六七、五度の絵画素を背景にして、中国山水図は透明される視角二二、五度の音楽如を本質にして、大和絵のまなざしは透明になる視角二二、五度の画楽如を中心にして、描く動詞表象の、「ゑ」の目の図画的行為を自覚的に種別化し、詩的述語帯の「物語的述語面」を形成する。
 さらに透明にする西欧絵画のまなざしの視角六七、五度の絵画素は、視角四五度の彫刻素を背景にして、透明にされる中国山水図のまなざしの視角二二、五度の音楽如は、視角視角四五度の彫刻戒を中心にして、透明になる視角二二、五度の画楽如は、視角視角四五度の刻彫戒を背景にして、それぞれ名ざす提題表象の「もの」の手の像造的行為を明らかにし、詩的述語帯の「劇的述語面」を形成する。
 ここで西欧絵画のまなざしは、視角四五度の彫刻素を本質とし、視角六七、五度の絵画素を背景として、視角九〇度の音楽素の「詩的述語面」を中心とするものであり、大和絵のまなざしは、視角六七、五度の絵音律を本質にし、視角四五度の刻彫戒を背景にして、視角二二、五度の画楽如の「物語的述語面」を中心とするものであり、中国山水図のまなざしは、視角二二、五度の音楽如を本質とし、視角六七、五度の絵画律を背景にして、視角四五度の彫刻戒の「劇的述語面」と中心とするものである、ということとしての種別化が成立する。
 そして詩的述語帯は、詩→物語→劇の論理に従って、物語としての西欧絵画のまなざしの透明にする絵画素、中国山水図のまなざしの透明にされる音楽如、大和絵のまなざしの透明になる画楽如が、それぞれ主導する物語的述語帯の詩的述語面に移行するのである。
 吉本は、詩をアフリカ的段階の宗教芸術、物語をアジア的段階の政治芸術、劇を西欧的段階の科学芸術と理解することで、折衷乞食の伝統主義でも西欧乞食モダニストの伝統否定でもない、恒久的に「関心をもつから否定」となることができるようになり、本質的に伝統を退けていく芸術生産の道を拓くことができるとしたと思われる。
 江戸の劇的述語帯の「俳句=劇的述語面」の場所で、現代詩=詩→和歌=物語→俳句=劇の構造に沿って、短歌的写生としての「和風絵画」を展開した画家に伊藤若冲がいる。
 アジア的段階からギリシア的段階への世界史的移行として成立した明治維新の立憲君主=天皇制において、西欧乞食のモダニスト知識人を否定し、同時に折衷乞食の伝統的知識人を否定する明治の西欧・詩的述語帯の「現代詩=詩的述語面」の場所で、現代詩=詩→和歌=物語→俳句=劇の構造に沿って、写生としての小説を展開した作家に夏目漱石がいる。
 明治の西欧・詩的述語帯の「現代詩=詩的述語面」の写生としての批評小説『草枕』を書く夏目漱石は、江戸の劇的述語帯の「俳句=劇的述語面」で写生としての絵画の大和絵を展開する伊藤若冲を取り上げ、恒久的に「関心をもつから否定」となる現代詩としての『写生の哲学』を展開する。漱石自身らしき画工が語り手として主演する。老人と和尚と若者と海音寺で一緒になった時、和尚に【矢張り南宋派かな】と言われて、画工が西洋画などと云ってもこの和尚にはわかるまいと思っていると、【いや、例の西洋画じゃ】と老人が応えてくれた。和尚は【ははあ洋画か】【あれは、わしもこの間始めて見たが、随分綺麗に描けたのう】という場面があるように、明治『現代美術としての西洋画』の非人情の論理をめざす若い画工である。
 大和絵伝統を否定して西欧画を先端文明とする西欧印象派の黒田清輝(くろだきよてる)(1866-1924)でも、写実派モダニズムの安井曾太(やすいそうた)郎(ろう)(1888-1955)でも、野獣派モダニズムの萬鉄五郎(よろずてつごろう)(1885-1927)でもなく、また洋画に伝統的な和様を折衷する梅原隆三(うめはらりゅうざぶ)郎(ろう)(1888-1986)でも、伝統的な和様に洋画を折衷する村上(むらかみ)華岳(かがく)(1888-1939)でもなく、漱石の画工は、佐倉藩の藩士の長男に生まれ儒学と武芸に励むと共に藩絵師黒沼槐山(くろぬまかいざん)に南宋画の花鳥様式を学び槐庭(かいてい)の画号を与えられ、その後工部美術学校に入学し、イタリアの画家A・フォンタネージュ(1818-1882)に西洋画を学んだ後、西洋画を描くのではなく、南宋派の伝統的な「定型」を「非定型」に向けて解体する「写生」を徹底した浅井忠(あさいちゅう)(1856-1907)の、水彩『吉野風景』や『鬼ヶ島/黙語の日本画』の態度で生きようとしていた。
  そして漱石は、そこに、若冲の和風絵画を、写生という批評行為の入り口として発見する・・・。


法外から正系をめざした男、司馬江漢★

 漱石らしき画工は、活人画として「心のカメラへ焼き付く」韻律と選択を、油彩画に固める浅井忠が、『にわとり』では円相図のトポロジー幾何学の論理と享楽で、若冲の『鶴図』や『鶏図』のような転換と喩の〈畳み重ね〉を「画中画」に暗示できているのに対して、機械製図法の第三角に客観化されたユークリッド幾何学の『収穫』は、転換と喩を全く暗示しない人のいな倫理と狂気の科学の世界に陥っていると感じる。そして画工は『収穫』が表象する「画外画」の転換と喩として、ダ・ヴィンチの「老人・植物・雲と幾何図形の素描」の同型の光景を次のように想像する。

 ◎夕暮れの机に向かう。障子も襖も開け放つ。宿の人は多くあらぬ上に、家は割合に広い。余が住む部屋は、多くもあらぬ人の、人らしく振舞う境を、幾曲の廊下に隔てたれば、物の音さえ思索の煩いにはならぬ。今日は一層静かである。主人も、娘も、下女も下男も、知らぬ間に、われを残して、立ち退いたかと思われる。立ち退いたとすれば唯の所へ立ち退きはせぬ。霞の国か、雲の国であろう。或は雲と水が自然に近付いて、舵をとるさい懶き海の上を、いつ流れたとも心づかぬ間に、白い帆が雲とも水とも見分け難き境に漂い来て、果ては帆みずからが、いずこに己れを雲と水より差別すべきかを苦しむあたりへ----そんな遥かな所へ立ち退いたと思われる。それでなければ卒然と春のなかに消え失せて、これまでの四大が、今頃は目に見えぬ霊氛となって、広い天地の間に、顕微鏡の力を藉るとも、些の名残を留めぬ様になったのであろう。或は雲雀に化して、菜の花の黄を鳴き尽くしたる後、夕暮れ深き紫のたなびくほとりへ行ったかも知れぬ。又は永き日を、かつ永くする虻のつとめを果たしたる後、蕋に凝る甘き露を吸い損ねて、落椿の下に、伏せられながら、世を香ばしく眠っているかも知れぬ。とになく静かなものだ。
 ◎76p

 五七五の韻律と選択の浅井忠の『収穫』を俳句の上句として、のフィボナッチ数列(*1)の黄金比で展開するダ・ヴィンチの「老人・植物・雲と幾何図形の素描」を、七七の転換と喩の下句として〈畳み重ね〉 に重ねて短歌を詠んでいる。それは「漢詩」と「和歌」が入り混じって平安の世にまで遡る和漢朗詠の短歌的な短文である。つまり浅井忠の『収穫』からはこの様な短歌的雰囲気が排除され、従って韻律も欠落して自然の農夫だけが選択された「非人情」の「ただの物」となっているのである。
 しかし画工の求める「非人情」は「ただの物」ではない。韻律と選択の上句の五七五の二次元の「線」が、転換と喩の下句の七七の四次元の「有の面」に飛躍して通じるトポロジー幾何学の短歌的な〈畳み重ね〉である。
 しかし世の中は、西欧絵画をさらに先端化する「写真術」が出現する文明開化の時代、見るトポロジー幾何学のことが、見えるユークリッド幾何学のものに客観化され、画家は見る詩人の場所から見られる芸人の場所に格下げされる。だから画工は、見えるユークリッド幾何学の五七五の韻律と選択のもののなかに、見るトポロジー幾何学の七七の転換と喩のことを、見えない枕詞の『或るば所』の〈畳み重ね〉の姿映として、十七文字の余白に封じ込めることができるか?できないか?の芭蕉の十七文字の「円相の技術」にかかることとなる。
 つまり機械的に「見える」五七五の写真術の登場で「見る」五七五の画家(画工が理想とする)の優位性が失われた時、「見られる」散文的な物の惰性的状態に対応して「見える」七七の物語的な説明をしてしまっては画家(画工が理想とする)の敗北である。そこで「見えない」韻文的な耳の言葉の緊張を用いることで、画家(画工が理想とする)の「見る」五七五の優位性を持続することができると考える。
 しかし「写真術」以前の江戸の芭蕉の時代、「見る」五七五の優位性を持続して「見えない」韻文的な耳の言葉の緊張を必要としない「見える」五七五の「浮世絵」を、「歌う」五七五の「俳句」や「語る」五七五七七の「和歌」が、補強するものとして、鈴木春信の眼鏡絵の浮世絵に見られるように、「見える=浮世絵」や「語る=和歌」や「歌う=俳句」は共にもてはやされることになっていたのである。
 松尾芭蕉(1644-1694)は、「見える=浮世絵」の描写=dess-inの全称と「語る=和歌」の意図=dess-einの特称による〈畳が重ね〉の「純粋疎外」の装飾的な「枕詞」を持つ《ことばのもの》になる和歌を短縮しただけの「俳句」を嫌って、短歌上句の五七五の韻律・選択に、見えない七七の転換・喩の〈畳み重ね〉の姿映としての「枕詞の余白」を残す描写=dess-inの全称の「原生的疎外」の俳句を行為する。
 芭蕉の死後、「俳句」と「浮世絵」の五七五のまなざしが、世間を席巻するなか、伊藤若冲(1716-1800)は、衰退する五七五七七の短歌の場所で知的に探求さたた「国学」に呼応する視角二二、五度の大和絵のまなざしを新しい「和風絵画」として『鶴図』や『鶏図』を確立する。その一方で「俳句」に一致する「浮世絵」から出発して、隆盛する五言律詩の「漢詩」に対応するのが視角四五度の中国山水図の平安期の唐の「漢風」の流れを汲む明-清発の『漢画』に至り、そこから「国学的和風」と対立する『洋画』に移行したのが司馬江漢である。
 延享五年、江戸の芝新銭座の町家に生まれた司馬江漢・本名安藤峻(1747-1818)は、十五歳の時父の死を切っ掛けに、同年代の表絵師の駿河台狩野派の狩野美信(かのうよしのぶ)(1747-1797)に学ぶ。しかし狩野派の五七五七七の物語的な耳を箏曲におく和歌風の装飾性に古臭さを感じ、十九歳で鈴木春信(はるのぶ)(1725-1770)に五七五の俳句風の耳を三味線におく「浮世絵」を学ぶ。自らを浮世絵師・鈴木春重(はるしげ)と称して明和末年頃から、「二世 鈴木春信」の名前で錦絵の版下を描く仕事から絵師を出発する。
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作品01春信スタイル
 自著『春波楼筆記』によると、春信(作品01)の死後、春信の落款で春信スタイルの偽絵(にせえ)を描いていたが、後に春重と署名するようになったと記されている。基本的に安藤峻は一点透視遠近法を強調し、『眼鏡絵装置』と共に需要の多かった『眼鏡絵(a)』に応える「浮世絵」を作ったことから、春信の落款時代には、春信(b)との区別をつける意味も含めて背景に極端な一点透視の遠近法を浮絵の画法を取り入れている(イ)。春重落款の作品ではより春信風の中に並行遠近法を入れている(ロ)。
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 この春信の偽絵(にせえ)の仕事から、初期江漢=安藤峻を贋作者と規定しているが、絵師春信を中心に彫り師や刷り師からにその腕を信頼されていた安藤峻は、春信の死後、刷り師や彫り師を抱える版元の要望に応えて偽絵を制作しながらも、作品12の「い」や「え」のよう西欧一点遠近法を強調したオリジナルの偽絵を描いたわけであり、決して贋作行為をしたわけではない。
 彫り師や刷り師を抱える版元の要望に応えて春信ブランドの批評的解釈作品として、西欧一点遠近法ではなく、平安以来の中国山水図の三遠法による並行遠近法を取り入れた(作品11-あ)を春重とする浮世絵を描いたのである。浮世絵の時代は、素朴な工業製品が工作され始めた時代であり、機械製図法の、正面図、側面図、平面図は、物を立体的に表す並行遠近法は「ものづくり」においては普通にに考えられていた。しかし遠くへ行けば行くほど広がる空間が、逆に一点に収束するという一点透視図法は一般には考えるに及ばなかった。
 近代的主体が不確かな江戸期、絵=タブローは言語=ランガージュのように「主体の表現」として問題にされることの少ない「客体の表現」だった。特に「浮世絵」は黒、赤、青、黄、緑、紫などの多色刷りの版木に分解彫刻され一枚の料紙に重ね刷りされる木版メディアで何百枚も複製される「グラフィックデザイン」であり、庶民の趣向に合わせた「娯楽商品」としての版元の木版メディア表現だった。そして春重は、この春信偽絵「浮世絵」から、木版メディアを規範化する「遠近法メディア」を自覚する「浮世絵」をつくりだし、その後、遠近法メディアの西欧絵画の探求に向かうのである。
 浮世絵師・鈴木春重はその後、蕭亭あるいは蘭亭の名で、肉筆画を肉質画を描いている。
 春重は浮世絵それも肉筆画の掛け軸あるいは日本画全般も含めて、明治以後から大変に多い贋作スキャンダルの先駆者の汚名を着せられる。それは安藤峻が、葛飾北斎(1760-1849)と並んで西洋遠近法を取り入れた安藤広重(1979-1858)などの「浮世絵」の本格的な遠近法の先駆者であったからである。浮世絵の客観化としての西欧遠近法の導入は絵の無個性化であり、描き手不在の事実の客観化となってしまう恐れがあった。そこで北斎は描き手の個性化に全力を尽くした。しかし安藤峻=鈴木春重は無個性の客観化こそ絵の価値だと考えた。
 写真術が出現した明治になって、誰かが悪戯感覚で、司馬江漢の落款を入れた無個性な日本橋図(図O)を描き、恰も安藤広重こと歌川広重が司馬江漢の無個性な「元絵」をもとに贋作(図Q)を描き、それを元に広重の東海道五十三次の『日本橋/朝之景・ 行列振出』(作品02)の個性を完成したかのような、江漢にとっても広重にとっても屈辱的な手の込んだスキャンダルが出現した。
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 贋作問題は、寺院や神社が美術の制作主体であり、公家や僧侶や武士が美術の責任的な作者主体として指揮し、複数の画工が作家主体として制作することとしてはじまった日本美術史において、鎌倉時代、禅宗=自力本願の禅僧が、自己の鍛錬としての水墨画の『禅画』が描かれるようになった時に問題としてはじまったと思われる。つまり一人の美術の主体と美術の作者と美術の作家(描き手=作り手)が、作品の主体化の本人であることが『禅画』においてはじめて問われたからである。
 この時、主体と作者と作家を主体化する一つの倫理主体として主語が問われることになる。西欧においては「思う自己と思われる自己」を主語制の哲学神が保証する「我思う故に我あり」のデカルト的倫理主体のもとに主語性の秩序が近代社会を構成していくのであるが、日本においては「思う自己と思われる自己」は同一ではなく無限にずれていくと考えられ、無限にずれていく回等の述語性の経験において「わかった!」と合点する「禅の公案」という場所においてなされるもとされる。このときから日本美術の大和絵は禅画の「円相-構造」のもと、作品の主体化を論理の享楽で徹底する述語制の主体化として生成されていく哲学行為となるのである。
 禅画の円相の構造は、中を内空白の「有の〈面〉」を名ざす刻彫戒の提題表象とし、外を異なる外空白の「有の〈面〉」を終止形な絵音律の形容詞表象とする「円相」の描く画楽如の動詞表象その「線」に「無」としての二次元の特権を与え、絵音律と画楽如と刻彫戒の三つの相反的な規制関係が四次元のトポロジー幾何学の《もののことば》の《享楽》を可能にするという述語性である。そして「俳句」の構造と同位相の「浮世絵」は、終止形な絵音律→描く画楽如→名ざす画楽如→名ざす刻彫戒が規制しあう相反的な、なくす順序で、〈分かる〉三次元の誤認と〈知る〉再認の〈知性〉の四次元のユークリッド幾何学の機能を超えて、二次元から四次元へ通じる享楽のトポロジー幾何学の享楽の構造でもあるということである。
 つまり悪戯の描き手は、ユークリッド幾何学とトポロジー幾何学の差異を失くして《生活の地面に開く》浮世絵を描こうとした司馬江漢(安藤峻)の無個性を悪意に利用して、広重「浮世絵」のトポロジー幾何学の個性に繋げて遊んだのである。
 しかしそれは、《形而上学に開く》短歌的な美学を否定し、《生活の地面》を掘り下げ、自然科学を信仰することを作品の主体化とする倫理の狂気で徹底する主語制の主体化を求める安藤峻(司馬江漢)にも責任があることは間違いない。従って百歩譲って広重の『日本橋/朝之景・ 行列振出』が江漢の落款入りの(図O)を下図としたとしても、余白のないユークリッド幾何学の「図O」や「図Q」の主語制の倫理の狂気に対して、余白をもつトポロジー幾何学の広重の『日本橋(作品13)』は、述語制の論理の享楽ほどの差異がある。
 明和(1764-72)中期、二五歳のころ、知り合った本草学・地質学・戯作・発明などマルチ知識人の蘭学者・平賀(ひらが)源内(げんない)(1728-1780)の紹介で、南蘋派(なんぴんは)の漢画家で西洋画法にも通じた宋紫石(そうしせき)の門に入る。父を失い春信を父として春重と称し、春信を失い新しい父としての「漢風の宋紫石(そうしせき)の門に入った安藤峻は、漢風の父そして祖父の先祖の司馬遷から司馬をとり、はじめて司馬江漢と名乗ったと思われる。
 浮世絵師の重信の名を捨てて、司馬江漢と称し始めた安藤峻は、視角四五度のまなざしの手に視角六七、五度の耳を尺八におく南蘋派の宋紫石(そうしせき)の絹に描く「漢風絵画」の画法を吸収し、時代の先端を行く写実的な表現の「漢画家」となった。そしてその後『解体新書』の図版を描いた小田野直武(おだのなおたけ)(1750-1780)に洋風画を学んだ。
 安永二年(1773)平賀源内は、鉱山技術指導のために訪れた秋田藩角館の宿で屏風絵に表現された若い二三歳の絵師小(お)田(だ)野(の)直武(なおたけ)の才能を発見した。源内は直武(なおたけ)を見込んで遠近法や陰影法などの西洋絵画の理論を直武に伝えた。同年十月、源内は江戸へ帰り、同年十二月、直武は「銅山方産物吟味役」を拝命して江戸へ上り源内の所に寄寓する。そのころ、源内の親友杉田(すぎた)玄白(げんぱく)(1733-1817)、前野良沢(まえのりょうたく)(1723-1803)らによる『解体新書』の翻訳作業が行われていた。底本『ターヘル・アナトミア』から大量に図を写し取る必要があり直武がその作業を行った(作品13-c)のである。つまり司馬江漢は、平賀源内の西洋画の理論を学んだ小(お)田(だ)野(の)直武(なおたけ)から西洋画の技術を「漢画」上に重ねて学び取ったのでる。それは五七五の韻律と選択の「見る」技法と蘭学の遠近法と油彩画を「漢画」の上に重ね、「漢風絵画」の七七の転換と喩の〈畳み重ね〉を『形而上学』に開く世界を、古臭い《野暮》として否定し、その上で、遠近法と陰影法の「見える」西洋絵画を《生活地面のさらに下に広がる自然科学》のなかに解消することを新しい《粋》としようとする行為であった。
 そこには詩吟譜の『形而上学に開く』若冲-南蘋派(なんぴんは)の「和風絵画」の京阪ネットワークに対立して、『生活の地面に開く』宋紫石(そうしせき)-「漢風絵画」と連携して《生活地面のさらに下に広がる自然科学》の友杉田(すぎた)玄白(げんぱく)、前野良沢(まえのりょうたく)、小田野直武(おだのなおたけ)ら平賀源内グルークの長崎~江戸ネットワークの中に「我も思う故に我あり」の正しい数学的散文を精緻化する司馬江漢の孤独が浮上していたのである。
 異端から出発し町衆に揉まれ光廣や光悦に洗練され正系となり「法橋(ほっきょう)」まで登りつめた俵屋宗達を最後に、江戸中期以降つまり漱石の草枕の語り手である画工も含めて絵師とは、国家幻想と共同幻想をめぐる異端の代名詞であった。したがって幕府系の狩野派、堂上系の土佐派/住吉派の教育監視秩序(アカデミー)を正系として、「和風絵画」の若冲も、「漢風絵画」の宋紫石(そうしせき)も、「浮世絵」の信春も北斎も広重も、坊主や医者と同じ法外(ほうがい)とされた。司馬江漢は法外(ほうがい)の場所から正系としての西欧絵画を目指したのである。
 平賀源内から西洋の自然科学の知識をえた江漢は、二七歳のころ源内の鉱山探索に加わる。そして三〇歳のころ源内の摩擦(エレ)起電機(キテル)を知る。三三歳のころ前野良沢の門に入り、大槻玄沢(1757-1827)らの蘭学者に接し、三七歳の時玄沢の協力により蘭語文献を読み銅版画の製作に成功する。
 奥に将軍家祈願所の王子権現社が見え、川舟を浮かべ、陽射しを受けてきらめく水面、川風の吹く堤をに沿って大きな弓形に遥かに続く隅田堤(づつみ)、一段低く左に三圍稲荷(みめぐりいなり)社の鳥居と参道を描く、右は隅田川左岸で、真乳山(まっちやま)からはじまり今戸橋、今戸瓦焼の窯から立ち昇る煙。この『三囲景図(みめぐりけいず)(作品03)』は、天明二年(1782)司馬江漢が、眼鏡絵(めがねえ)として制作した日本初の銅版画である。江漢は手に入れた腐蝕銅版画(エッチング)プレス機を元に、大槻玄沢の助力のもと、レンブラントが完成した腐蝕銅版画(エッチング)を『ショメール(蘭語訳の日用家庭百科事典)』と『ボイス(科学技術事典)』から訳読し、工夫を重ねて製作法をマスターした。
 ①銅板を鏡面に磨く、②腐食防御のグランド液を引き乾燥、③針のように尖ったニードルでグランド膜を剥ぎ取る線描で図を描く、④腐食液(塩化第二鉄液-FeCI3)に浸けて描線を凹状に腐食、⑤グランド膜を溶液で拭き取りローラーで油性インキを凹状の線に詰める、⑥寒冷紗(かんれいしゃ)で不要なインクを拭い取る、⑦プレス盤の上に置き湿らせた画用紙を乗せてプレス機で印刷する。以上の七段階に要約できる腐蝕銅版画(エッチング)は左右逆に表現することを前提に絵を描く。しかし、絵をいったん鏡にうつして見る反射式覗き目鏡に付属したこの「眼鏡絵(めがねえ)」の『三囲景図(みめぐりけいず)(作品18「d」)』は左右を普通に描いて左右は逆に刷り上げている。『三囲景図(みめぐりけいず)(作品3-ホ)』の銅板画はじめ六点を眼鏡絵として制作し、翌年天明三年(1783)覗く覗眼鏡(のぞきめがね)を売り出した。
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 その後、江漢は天文・地学、動植物など西洋博物学、自然科学を紹介し、『和蘭天説』や『刻白爾(コッペル)天文図解』などといった啓蒙書を書くと同時に、司馬江漢本来の主題である「生活の地面の下の科学自然を」を掘り下げ四二歳の時、オランダ商館の外科医ストゥッツエルの所持していた『ジャイヨ世界図(フランス/1720刊)』の模写した。
 その年、初めてひとり長崎への旅に出る。藤沢より西を知らなかった江漢は、広重や北斎、または漱石の画工のように、東海道から仰ぐ富士の姿に心を打たれ、旅の途中で見た風景を写生する。長崎に着いて、ストゥッツエルの紹介でロンベルク商館長を訪問し、オランダ船に乗船する機会を得た。長崎では初めて多量の輸入油絵を目にする。江漢はカンバスに麻ではなく「厚紙」や「絹布」を使い、絵の具は当時、傘の防水に使用していた荏胡麻(エゴマ)油に顔料を混ぜ合わせて制作した。
 江漢が国内留学のつもりで初めて来た長崎で、西欧絵画を模倣して1790年頃に描いたと思われる着彩画や油絵画やその関連で制作された作品が残されている。
 『異国工場図』は、アムステルダムで1694年に刊行されたルイケン父子作の銅版画集『人間の職業』を下敷きにした《工場図》に基づく陶磁器工場を絹本着彩の水性で、窓外の風景に遠近法の消失点を示し、窓から屋内にさしこむ外光を鮮やかに表わし立体的な空間を強調して描いている。『異国風景人物図』は、男性bと女性cの双幅の絹本油彩で、『異国工場図』と同じ、ラウケン『人間の職業』を下敷きにし、《船員図》に基づく男性b図に款記「江漢司馬峻寫」と蘭語「Eerste Zonders in Japan Ko : 」(「日本における最初のユニークな人物」の意)。《扉絵》に基づく女性c図の款記「江漢司馬峻寫」と「Sibasun.」朱字サインがある。
 長崎の遊学から戻った江漢は、油絵の制作に精力的に取り組み、日本風景を描いた洋風の風景画を次々と発表した。富士山(作品)はその格好の主題として取り上げられた1796年に描いた、『相州鎌倉七里浜図-チ』と1804年に描いた『駿州薩陀山富士遠望図-リ』や『馬入川の富士図-ヌ』『江之島富士遠望図-ル』などがある。
 『相州鎌倉七里浜図』は、紙本油彩の大画面の『絵馬』として江戸・芝の愛宕神社に掲げられてもので、文化六年に(1809)以前に愛宕神社からはずされたあと書肆青山堂の所有の二曲屏風となっている。屋外に掲示されていたため、損傷や補筆が著しいが躍動する海波、近景の浜辺から遥か遠くの富士山まで遠近法の広大な空間と爽快な青空を看取することができる。款記は「西洋畫士 東都 江漢司馬峻 描寫 S:a.Kookan Ao:18. / 寛政丙辰夏六月二十四日」とある。『駿州薩陀山富士遠望図』は、絹本油彩で、薩陀峠(清水市興津)から富士を遠望し、駿河湾越しの富士を描く。左手にわずかに見える浜辺の集落は、東倉沢(庵原郡由比町)と思われる。
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 『馬入川の富士図』は、27×56cmの横長の絹本油彩で、手前に小さな水鳥をと遠く広大な富士を小さく遠近法での本質を示している。『江之島富士遠望図』は江ノ島のシンボル聖天島を中心に富士と対比して描いた絹本油彩である。
 これら遠近法の写生画の目的は絵そのものにではなく、模写した『ジャイヨ世界図-ヲ』や『刻白爾(コッペル)天文図解』によるコペルニスク的宇宙観とデカルト的世界観の確認にあった。寛政四年(1792)には木版「地球全図(h)」を発行し、文化七年(1810)には『黒漆の地球儀-ヨ』を発売している。江戸時代に制作された地球儀や天球儀はほとんどが張り子製であるが、江漢は、木製の球体の表面に黒漆を塗り、朱で経緯度線、文字を交えた世界地図を黄・緑・朱などで表し漆絵(うるしえ)と蜜陀絵(みつだえ)を混合している。そして鉄製の子午線環裏に「文化庚午秋八月 司馬江漢峻製」の銘が刻まれている。
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蒔絵という大和絵の原理★

 乾燥としての硬化に、水分が乾くこととは逆に、高い湿度と酸素を必要とするラッカーゼ酵素の作用が不可欠な「漆」は、天然漆を有する東アジアから東南アジアの風土、民族性、宗教性と共にアジアの錬金術として発生し生成し展開され、二〇世紀に石油樹脂のプラスチックが誕生するまで、食器や文具や武具などの生活用品においてその機能を果たしてきた。
 玉虫逗子(たまむしのずし)にも用いられている漆絵(うるしえ)と蜜陀絵(みつだえ)の併用は古い技法である。そもそも漆絵は漆に各種の顔料を混ぜた色漆で文様や絵を描く技法であるが、漆は、顔料によって化学反応を起こして変色するため、黒・赤・黄・緑・褐色に限られる。これにたいして桐油や荏油に蜜陀僧(みつだそう)(一酸化鉛(いっさんかなまり)-PbO)を加えて乾燥性を高めたものに顔料を溶いて描いた漆に似た風合いの一種の油絵でああり、白色や中間色も自在に発色できることから、漆で下地をつくり、その上に普通の水性日本画用絵の具で膠をきかせて絵なり文様なりを描き、さらにその表面に透明な荏油を薄く塗り、彩色の鮮度を保持しながら水分と汚れを排除し、艶を画面にもたらす効果のために用いられた。。この油色絵をさして蜜蛇絵と呼ぶこともある。
 江漢の地球儀は漆を油彩に類似した蜜陀絵を玉虫厨子のように併用し、て硬質の膜材とし、その一方で木製の球体を大地として人間の「生活の地面を下に掘り下げた」その地球の中心を西欧絵画=遠近法の消失点として、その表面を人間の生活の場所として『ジャイヨ世界図』で覆う、アジアの油彩画である漆絵・蜜陀絵を西欧油絵の理論と技術の正系として制作したのである。
 そして確かに「機械製図法・第一角」にモチーフを設定し西欧絵画のまなざしとして透明にする神の視線の透視遠近法の風景写生の究極は、「生活地面の下の自然科学的な自然」を「地球儀」に模型化し「我みる故に我あり」と成る超越的な自己を対象化して分離することであると思われる。しかし自分は世界=地球の属している。地球という世界に制約されている。
 しかし丸く鈍い存在感で光る黒漆の球体にある考えが浮かんだ。西欧絵画九〇度で直視する球体は、狭い一点しか見えないが、四五度で斜めに見ると、ある広がりが見え、二二、五度で見ると、より大きな広がりともに深い表面の質が見える。要は絵は描くことではなく、ただ「見る」こと、それでいいのではないか?
 江戸中期の漆工小川破笠(おがわはりつ)(1663-1747)の蒔絵と共に鉛・貝・陶片などを象嵌した漆工芸(作品15)がある。柏(かしわ)に止まる木(みみ)兎(ずく)の『柏木兎(かしわみみずく)意匠料紙(りょうし)箱-あ』と、鹿の後姿に五言絶句の漢詩が響く『春日野(かすがの)意匠硯箱-い』(作品)は、西洋画のように視覚九〇度の遠近法として見ると稚拙な木兎(みみずく)や鹿の絵柄でしかないが、視角四五度の名ざす刻彫戒の二次元の《手》から、視角六七、五度の終止形な絵音律の四次元の《耳》へのトポロジー幾何学の通路が視覚二二、五度の描く画楽如の《目》の場所の禅の「禅=円相の立体」とすると、豊かで強い漆面の上で生き生きとした享楽がみえてくるではないか!
 そこまで気づいた司馬江漢は晩年、やがて1837年、フランスではダゲールによって、イギリスではタルボットによって発明される《写真術》の視角九〇度の西欧絵画のまなざしに一致して一次元、二次元、三次元、四次元に連続する「主語制の散文=言語」の機械システム化するユークリッド幾何学の「野暮な死角の空間」からの逃亡を咨(はか)る。つまり「死亡通知」を出し、表現しない、他人と付き合わない、そうすることで江漢は地球という世界の制約から逃れようとした。 
 視角九〇度の「主語制の散文=言語」で機械システム化する《写真術》の西欧絵画のまなざしに呑みこなれた司馬江漢の「和製洋風」のまなざしは、「機械製図法・第一角」に設定した、初期ルネサンスの近視法のまなざしであり、「見ること」が「見えること」と同じであるという「機械製図法・第三角」の古典主義の遠視法との二重性のまなざしの欠如であり、ラファエル前派と同様の自然科学的な散文合理性の倫理の狂気である。しかしジョン・ラスキンのような超越的な自己を対象化して分離する主語制の行為者ではない。江漢は超越的な自分を非自己として、自己に「死亡通知」をだす論理の享楽において述語制の非分離の場所にとどまったのである。
 「機械製図法・第一角」の世界とは見える《目》であり、「機械製図法・第三角」とは見る《スクリーン》である。江漢は、見える《目》の「和製洋画」を描き続けてきたが、「地球儀」の制作で、見る《スクリーン》に気付いたのだ。
 西欧の油彩画の表面の堅牢性を上回る漆の被膜は、 物を保護する被膜であると同時に、まさに見る《スクリーン》であり、古代から、見える《目》の享楽を生み出すものとして貴重な美術品とし重用されてきた。奈良時代の正倉院には当時の中国シルクロードをから世界の品物が集められ残されているが、遺品の中で漆が使われているものとしては、琴、籃胎(らんたい)(竹製) の瓶(へい)、木製・皮製の箱、太刀の鞘(さや)、その他、合子、盆、盤・皿などがあり、その装飾に貝などを文様型に切って漆地に嵌め込む螺鈿(らでん)、漆地に彩絵した上に油を塗る油色(ゆしょく)、漆地に金泥(きんでい)や銀泥(ぎんでい)で文様を描く金銀泥絵、漆地に薄い金や銀の板を細く文様型にして嵌め込む平文(ひょうもん)(平脱(へいだつ))、漆地に金粉を散りばめた初期の蒔(まき)絵(え)など各種の見える《目》の享楽を、見る《スクリーン》としての大和絵の基本概念の手法が使われている。
 漆の文字は中国から来た漢字であるが、「うるし」という読みは、「うるわし」や「うるおす」から考えられたものと謂れ、蒔絵(まきえ)は金粉を蒔(ま)いた絵という意味から生まれ、螺鈿(らでん)など象嵌の漆全般の手法で描かれた絵をさすようになったものである。
 江戸後期、ローマの名所として知られるガイウス・ケスティウスのピラミッドの風景を描いた銅版画(1763年)を、螺鈿蒔絵のプラーク(壁掛け用の飾り板)に写した漆器『ケスティウスのピラミッド螺鈿蒔絵』が残されている。
 改めて言えば螺鈿(らでん)とは、夜光貝、蝶貝、鮑貝などの貝類をはじめ、象牙類、鼈甲、琥珀など宝石のようなものを乾く前の漆に嵌め込み、乾いた後に研ぎ出す装飾行為をさす。しかし金や銀の板金を文様に切り透かしたもの漆に嵌め込む技術は、螺鈿(らでん)とはいわないで平文(ひょうもん)または平(へいだつ)脱(へいだつ)という。つまり蒔絵は螺鈿と平文(平脱)で作り=描かれた漆器絵である。
 つまり『ケスティウスのピラミッド螺鈿絵』は、赤色伏彩色を交えた螺鈿と平文の技法を使って、フランスの画家ジャン・バルボー(1718-1762)による繊細な銅版画(作品17)を繊細で華麗な漆絵に仕上げたものである。黒漆を背景に夜のピラミッド風景にみえるが漆工には夜の風景という意識はない。あくまでも遠近法でバルボーが描いた昼間のケスティウスのピラミッドの景観図を黒漆という物質へ写した絵であり、透視法の空間を平面の螺鈿と平文の漆絵としたものである。そしてこの蒔絵と銅版画の違いには、見える《目》と見る《スクリーン》の間で展開される、視角九〇度の終止形な音楽素の形容詞表象の「こゑ」を中心とする西欧絵画のまなざしと、視角二二、五度の画楽如の動詞表象の「ゑ」を中心とする大和絵のまなざしとの決定的な違いが現れている。
 西欧絵画のまなざしのバルボーの銅版画は、視角九〇度の終止形な音楽素の形容詞表象で「鏡」を見るように画面を直視した「点」を中心に、視角六七、五度の描く絵画素の動詞表象の「線」で描く。そして視角四五度の彫刻素の提題表象で物の「面」を確認していくのである。そしてその空間は、視角九〇度の終止形な音楽素の形容詞表象との差異として描き込まれることになる。銅版画のニードルによる点、線、面の見える《目》はその音楽素、絵画素、彫刻素の見る《スクリーン》の痕跡である。
 しかし大和絵のまなざしの『螺鈿蒔絵』は、垂れる漆液を扱うことから材料を水平にして、視角二二、五度の描く画楽如の動詞表象の「ゑ」を見る《スクリーン》を基準にする。そして視角六七、五度の終止形な絵音律の形容詞表象の「こゑ」が聴こえるように見える《目》の場所を探るようにして、視角四五度の名ざす刻彫戒の提題表象の「もの」の落ち着く場所を捜しあてていくように描いていくことを基本とする。二本の柱と、直方体の柱が螺鈿蒔絵で垂直と水平に描かれているのは、傾きで空間を表す無意識の表れである。
 したがって西欧絵画のまなざしとしての銅版画は、〈現実〉と同じ、一次元、二次元、三次元、四次元のユークリッド幾何学の〈現前〉と〈現在〉の「空間」を表現すると同時に、音楽素と絵画素と彫刻素が分離して制作した〈現在〉の時間と共もに古びている。
 しかし大和絵のまなざしとしての蒔絵は、二次元の「線」が四次元の「有の面」に通じて繋がる「禅=円相図」のトポロジー幾何学をなしており、〈現実〉と〈現前〉と〈現在〉が〈畳み重ね〉に重なる「立体」であると同時に、非分離な画楽如の「ゑ」と絵音律の「こゑ」と刻彫戒の「もの」の関係にある。
 ダ・ヴィンチの『デッサン』は、鋭いペン先、この銅版画の線と同じユークリッド幾何学の一次元、二次元、三次元に連続した線であり、それをフィボナッチ数列(*1)の黄金比で、四次元のユークリッドの主語制に連続させている。
 しかし若冲の『鶴図』は、二次元の円相の筆の「線」の見る《スクリーン》の「ゑ」から、『みゝ』の四次元の「有の面」の聴こえるように見える「こゑ」に飛躍して通じるユークッド幾何学をつかまえた瞬間の、〈現実〉と〈現前〉と〈現在〉が〈畳み重ね〉に重なる「立体」であると同時に、非分離な画楽如の「ゑ」と絵音律の「こゑ」と刻彫戒の「もの」の関係にある。


法外、正系、異端、先端、伝統、定型と非定型★

 江漢は、師宋紫石(そうしせき)の「漢風絵画」が漢詩や詩吟を伴うから古臭いと感じたわけではない。《目》と《スクリーン》の非分離を前提に、法外の身分を自ら受け入れ、余裕綽々(しゃくしゃく)で共同幻想と国家幻想の揺らぎの異端の定型を生きる宋紫石(そうしせき)の正系性が、共同幻想からも国家幻想からも疎外された西欧的な個人幻想の江漢には堪(たま)らなく古臭く感じられ、気に食わなかったのである。つまり法外として社会に規定される絵師の異端の本質を見抜いた江漢は、法外と規定する社会からの脱出には、見える《目》の見る《スクリーン》からの分離によってこそ「絵画の正系」が成されるとしたのである。しかしそれは主語制のデカルト的な個人幻想の行き止まりに出会うことであった。
 漱石らしき浅井忠らしき江漢らしき語り手の画工は、旅も終わりに近づいて、共同幻想からも国家幻想からも疎外された江漢の個人幻想を超える非自己の自己幻想が、《目》と《スクリーン》の非分離として存在することに気づく。そして共同幻想と国家幻想との揺らぎであるが故に古臭い芸術の本質が内包される論理の享楽としての異端に芸術の非定型の正系を発見する。

 ◎余のこの度の旅行は俗情を離れて、あくまで画工になり切るのが主意であるから、眼に入るものは悉く画として見なければならん。能、芝居、若くは詩中の人物として飲み観察しなければならん。
 社会の公民として不適当だなどと評しては尤も不届きである。善は行い難い、徳は施しにくい、節操は守り安からぬ。義のために命を捨てるのは惜しい。これ等を敢えてするは何人に取っても苦痛である。その苦痛を冒すためには、苦痛に打ち勝つだけだけの愉快がどこかに潜んでおらねばならん。画と云うも、詩と云うも、ありは芝居と云うも、この悲酸のうちに籠る快感の別号に過ぎん。この趣きを解し得て、始めて吾人の所作は壮烈にもなる、閑雅にもなる、凡ての困苦に打ち勝って、胸中一点の無上趣味を満足せしめたくなる。肉体の苦しみを度外に置いて、物質上の不便を物とも思わず、勇猛精進に立って、芸術を定義し得るとすれば、芸術は、われ等教育ある士人の胸裏に潜んで、邪を避け正に就き、曲を斥け直にくみし、弱を扶け強気を挫かねば、どうしても堪えられぬと云う一念の結晶して、燦として白日を射返すものである。
 ◎154~155p  

 この言説は画工の口を借りた漱石の核心である。しかし決してジョン・ラスキンにような主語制の倫理の狂気ではない。『草枕』という芸術論に射返した述語制のハイライトの論理の享楽である。
 まず自らの法外の身分を受け入れる絵師たちは、正系とされる狩野派であることにも、土佐派であることにも、住吉派であることにも、それが根拠のない異端の防御や繕いの定型しかないことは誰にも分かっていた。
 《善は行い難い、徳は施しにくい、節操は守り安からぬ。義のために命を捨てるのは惜しい》《その苦痛を冒すためには、苦痛に打ち勝つだけだけの愉快がどこかに潜んでおらねばならん》と論理の享楽を求めて宋紫石らが、社会の外的規定の法外を内的規定に変えるべき頼ったことは、世阿弥の「秘すれば花」の『風姿花伝』であり、和歌の美を幽玄・長高・有心・事可然・麗・見・面白・濃・有一節・拉鬼の十の様態に分類した藤原定家の『定家十体』などの定型の芸術論であった。
 そして江戸時代には、『風姿花伝』や『定家十体』を、鎌倉末期の五山アヴァンギャルド虎関師錬が、《壮烈にもなる、閑雅にもなる、凡ての困苦に打ち勝って、胸中一点の無上趣味を満足せしめたくなる。肉体の苦しみを度外に置いて、物質上の不便を物とも思わず、勇猛精進に立って、芸術を定義し得る》経師、唱導、梵唄、念佛の「音藝」の種別化を提案していた。
 島国〈クニ〉経師=天つ神の〈有の「面」〉、梵唄=天つ罪の「線」との、峡嶋〈ツチ〉唱導=国つ神の「無」念佛=国つ神の「点」、という四つに種別化した音藝から分析される視点がすでに提出されていたのである。
 したがって正系の真ん中を異端として生きる南蘋派(なんぴんは)の紫石(しせき)は、島国〈クニ〉において、経師=天つ神の〈有の「面」〉の生成と梵唄=天つ罪の「線」の発生を生きる共同幻想と、峡嶋〈ツチ〉において唱導=国つ神の「無」の生成と念佛=国つ罪の「点」の発生を生きる国家幻想の間を揺れ続ける法外の個人幻想と自己幻想を《邪を避け正に就き、曲を斥け直にくみし、弱を扶け強気を挫かねば、どうしても堪えられぬと云う一念の結晶して、燦として白日を射返す》自覚を生きていたのである。
 しかし共同幻想からも国家幻想からも疎外されて西欧的な個人幻想の「生活地面の下」を科学的に掘り下げるようとする江漢には、正系の真ん中を異端として生きる師紫石(しせき)が堪(たま)らなく古臭い「形而上学に開く」儒教的なものに感じられ、気に食わなかったのである。しかし《邪を避け正に就き、曲を斥け直にくみし、弱を扶け強気を挫かねば、どうしても堪えられぬと云う一念の結晶して、燦として白日を射返す》ことにおいて、江漢は師紫石(しせき)に全く劣るものではなかった。いやその徹底としての西欧の主語制においては、師紫石(しせき)の先端正系の定型を大きく超える非定型であった。がしかし江漢のそれは、自己の死とエロスで調和するラスキンの倫理の狂気に追い詰められて締め出された法外異端正系の定型であった。
 つまり江漢の行為は、和歌=箏曲的ソナタ、漢詩=尺八的カンタータ、俳句=三味線的カンタータの三つの全称の意図=dess-einの《大和絵の絵画》の湿ったな聴覚性を排除して、平賀源内、杉田玄白、前野良沢らから学んだ西欧自然科学の視覚に特権化された主語性の倫理の狂気を正系として法外=絵師の共同幻想と国家幻想の外に出たうえで、峡嶋〈ツチ〉国つ罪の念佛の「点」を〈対象としての芸術の富士の風景〉として、述語性の『和製洋画』の論理の享楽を行為した特称のdessin=描写の乾(かわ)いた朗(ほが)らかな定型の行為である。
 そもそも師紫石(しせき)の時代は、八橋検校の『五段の調(しらべ)』の箏曲ソナタ(器楽)に呼応した尾形光琳の『燕子花』にみられる《大和絵の絵画》が成立した後、世俗的な三味線カンタータ(声楽)と共に《浮世絵》が大きく隆盛し、絵師が「美とは何かを」巡って生きることになった時代であり、和歌=箏曲的ソナタ、漢詩=尺八的カンタータ、俳句=三味線的カンタータの三つの湿った聴覚性に扇動される《大和絵の絵画》の正系の真ん中を貫く述語制の異端が批評と注釈を巡る時代になっていた。
 「美」は画工にとっても最大の問題だった。しかし画工は【社会の一員として優に他を教育すべき地位に立っている。詩なきもの、画なきもの、芸術のたしなみなきものよりは、美し所作ができる。人情世界にあって、美しき所作は正である、義である、直である。正と義と直を行為の上に於いて示すものは天下の公民の模範である(156p)】と明治の美の気風を定義する。しかし画工は、美しき所作を正と規定する江戸=明治の人情界の規範を離れた画工は【人情世界から、じゃりじゃりする砂をふるって、底にある、うつくしい金のみを眺めて暮らさなければならぬ(156p)】と、江戸絵師たちの法外の場所を改めて確認する。しかし明治三六年五月に、第一高等学校生徒十八歳の藤村操が未熟さゆえに人情世界に押しつぶされ、『悠々(ゆうゆう)たる哉(かな)天壌(てんじょう)遼々(りょうりょう)たる哉(かな)古今(こきん)、五尺の小軀(しょうく)を以ってこの大をはからむとす』と始まる美文調の言葉を残して、日光華厳の滝で投身自殺をしたことを画工は人情世界の限界としての死に飛び越えた藤村操の壮烈を認めないが決して嗤うことはできないと語る。そして【余の視る所にては、彼の青年は美の一文字の為に、捨つべからざる命を捨てたものと思う(155p)】という。つまり人情世界を超える美を求めたと画工は理解したのである。
 しかしこのように「美」と「人の命」を等価にし得る考えは、美、義、直の「天下の公民」という言葉が成立つ明治近代社会の人間主義の人情世界を前提としている。人間主義以前の人情世界では、美は正が規定するものであったが正は、社会が排除する悪や狂気ではないものという消極的な規定であり、正は決して積極的に美を規定するものではなかった。 
 人間主義以前の人情世界の江漢の江戸時代、美を規定する正は、仏教やキリスト教におては「善」が規定し、禅や儒教においては、画工の「義や直」が規定した。従って画工は、西欧人間主義ではなく、禅や儒教における「義と直と正」が美を規定するとして、若冲や江漢と同様に美は死の壮烈さに匹敵するという視点に立って『美とは何か』を考えていると言える。
 法外の自由のなかで絵師たちは、光琳や応挙の和歌=箏曲的ソナタ系、蕭白や蕪村の漢詩=尺八的カンタータ系、菱川師宣や鈴木春信の俳句=三味線的カンタータ系の三つの湿った聴覚に扇動され抑圧される述語制の『大和絵の絵画』に分かれて「美とは何かを」巡っていた。つまり描写=dessinの特称が、意図=dess-einの全称の三つの耳の内のどれに従い〈畳み重ね〉るべきかを彷徨っていた。江漢は彷徨った結果、重く湿った耳を捨て目を目に〈畳み重ね〉た定型を生み出したのである。 
 その頃、長崎に清(しん)から新時代の漢画がもたられていた。清(しん)の画家沈南蘋(しんなんびん)が長崎に滞在し描写=dessinの特称と意図=dess-einの全称を濃厚に〈畳み重ね〉る新しい花鳥画の先端正系の技法をもたらしていた。江漢が「浮世絵」と「洋画」の間の繋ぐ漢画として学んだ宋(そう)紫石(しせき)・本名楠本幸八郎(くすもとこうはちろう)(1715-1766)は、四〇歳半ばの宝暦年間、長崎に赴き、沈南蘋(しんなんびん)の弟子・熊代熊斐(くましろゆうひ)に就いて沈南蘋(しんなんびん)の画法を学んだ。二羽庭の鶴が山頂に立つ境地を「吟ずる」かのような漢画(作品15)を出発させた熊代熊斐(くましろゆうひ)は、国学の隆盛とともに平安和風の五七五七七の短歌的美学が再興するなか、清(しん)の沈南蘋(しんなんびん)に学び、和風を超える合理的な博物学的な自然観に基づく五言絶句などの漢詩のリズムを規範化し、先端正系の真ん中に就いていた。宋(そう)紫石(しせき)は、熊斐についで来舶していた清人画家・宋紫岩にも入門し、師の名から中国風に宋(そう)紫石(しせき)と名乗った。同じ頃、長崎では禅僧から還俗した鶴亭=海眼淨光(かいがんじょうこう)が熊斐から南蘋の技術を学び才能を発揮していた。そして先端正系の真ん中の二つの異端として西の鶴亭、東の紫石(しせき)と称される東西双璧の南蘋派が生まれた。
 そして東西の南蘋派(なんぴんは)の出現によって、和風を際立てる円山応挙と漢風を際立てる曾我蕭白の「大和絵の絵画」の新古典主義が相対的に確立され、五七五の浮世絵、五七五七七の大和絵、五言絶句などの漢詩リズムの漢画の三者に区別されながら新古典主義から目と耳のロマン主義へ向けて発展する。そして、そこに第四として法外異端正系の江漢の目の写実主義の定型が浮世絵の延長上に成立したのである。
 長崎=江戸の先端正系の真ん中の異端に発生した南蘋派(なんぴんは)という目と耳の新古典主義の「大和絵の絵画」に対して、京都の伝統正系の異端のど真ん中で、耳と目と手のロマン主義の非定型の「大和絵の絵画」として登場する人物こそ、漱石が小説『草枕』の若き画工の理念の場所に設定している伊藤若冲である。
 西の鶴亭/東の紫石(しせき)の先端正系の耳と目としての新古典主義-南蘋派が確立し、江戸=長崎の法外異端正系の江漢の定型が目の写実主義を純化した時代に、京都の伊藤若冲は、伝統正系のど真ん中の耳と目と手の異端のロマン主義の非定型を展開するのである。
 漱石の無意識は、「あきづけば をばなか上に おく露の けぬべくものわは おもほゆるかも」と聴こえるように見える「長良の乙女」の終止形な絵音律の伝統の短歌を中心に、那古井の宿の欄間に見た漢詩を名ざす刻彫戒の正系の真ん中に、ふと横の床の間に見る若冲の『鶴図』の描く画楽如が伝統正系のど真ん中の異端のまなざしの非定型として超越的な『草枕』の視点が浮かび上がらせ、画工に、その後で転寝(うたたね)の夢にでてくる西欧絵画「ラファエル前派」のミレイの音楽素と絵画素と彫刻素の先端正系の異端の『オフェリア』と対決させる。それは詩的述語面の非定型の法外の異端から、物語的述語面の定型の先端正系の異端に立った宋紫岩の定型に対して、物語的述語面の次の劇的述語面を超えて新しい詩的述語面で法外先端異端の定型を進めた主語制の江漢と異なって、若冲は劇的述語面に止まりながら、伝統正系の異端の非定型の述語制を徹底するのである。


自然の超えた数学者=若冲、フラクタル幾何学の和風絵画★
   Ⅰ
 伊藤若冲は、正徳六年(1716)京の錦小路にあった青物問屋「枡屋/通称=枡源(ますげん)」の長男として生れ、二三歳のとき、父・伊藤源左衛門の死去に伴い、四代目枡屋(伊藤)源左衛門を襲名する。しかし若冲は、子供の頃から商人の間で高価な品物として流通する反物を母と共に眼にし触れるするなかで、その反物に描かれた花や動物の絵の美しさに魅せられ、命のとしての昆虫とその住まいとしての植物を愛おしく描くことに熱中していた。絵を描くこと以外、世間の雑事には全く興味を示さなかったという。商売には熱心でなく、芸事もせず、酒も飲まず、生涯妻も摂らなかった。四〇歳となった宝暦五年(1758)、当時四〇歳は初老と言われていたことに準じて家督を三歳下の弟・白歳(宗巌)に譲り、名も「茂右衛門」と改め早々と隠居し画業の暮らしをめざした。
 それはまさに江戸で父に死なれた司馬江漢が鈴木春信について「浮世絵」で作り生きていこうと倫理の狂気に向かい始めた頃であり、その時、京都で若冲は、「死」と「エロス」を交換する視覚に対幻想し論理の享楽の生涯独身の画家人生にのめり込んでいくのである。
 若冲の号は、相国寺の禅僧・大典和尚から与えられた居士号であり、「若冲」は『老子』にある「大盈(だいえい)は冲(むな)しきが若(ごと)きも、其の用は窮(きわ)まらず」(満ち足りているものは空虚なように見えても、その役目は尽きることがない/大いに充実しているものは、空っぽのようにみえる)から名付けられた。
 若冲の絵の指標となったものは、華麗に装飾された商品の反物や商品の蒔絵の螺鈿、象嵌、平文の技術などであったが、五山アヴァンギャルドの阿弥派アカデミズムを引く京都の光悦や宗達や光琳のであり『鶴図』にみられる禅の「円相図」と〈畳み重ね〉に要約される和歌的な見る《スクリーン》の論理による見える《目》の快楽であった。
 若冲の『鶴図』には、禅の円相図の視角六七、五度の絵音律のまなざしの胴体と二本の脚が墨の〈畳み重ね〉の螺鈿(らでん)のように象嵌された五七五に、その上部に記号化された視角四五度の刻彫戒のまなざしと。下部に視角二二、五度の画楽如のまなざしの平文(ひょうもん)が七七と〈畳み重ね〉る短歌の述語制がみごとに図解されている。
 伊藤若冲は、京都に流通していた禅的な法華経解釈による命(いのち)を哀(あわ)れむ仏教的博物学の草木思想の心的現象を背景に、宝暦八年(1758)頃から本格的に『動植綵絵(どうしょくさいえ)』を描き始める。若冲(1716-1800)のそれは、江戸から京都を超えて長崎と連携し、先端正系の真ん中の異端の定型として発生した東の宋紫石(そうしせき)(1715-1786)と西の鶴亭=海眼淨光(かいがんじょうこう)(1722-1786)の南蘋派(なんぴんは)という目と耳の新古典主義の「漢風絵画」に対して、伝統正系の真ん中の異端の非定型として生成するロマン主義の「和風絵画」として生成することになる。
 沈南蘋(しんなんびん)を継承した熊代熊斐(くましろゆうひ)の漢画を新古典主義を確立した紫石(しせき)と鶴亭は、五言絶句などの漢詩リズムを〈畳み重ね〉た「漢風絵画」であった。そこには、五言絶句などの漢詩リズムにおいて、漢語の韻のままに理解とする白文の紫石(しせき)と、訓読文として短歌的な五七五七七に近づけて解釈する鶴亭の二派の先端正系の耳の場所の違いがあった。前者は視角四五度の中国山水図のまなざしに、五言絶句などの白文のままの漢詩のリズムの耳に尺八(一節切)を重ねる紫石(しせき)=南蘋派(なんぴんは)の漢風絵画であり、後者は視角二二、五度の大和絵のまなざしに、白文から訓読文にフシ(旋律)をつけた詩吟(しぎん)の鶴亭=南蘋派(なんぴんは)の漢風絵画である。宋紫石(そうしせき)は白文を詠む「こゑ」としての耳から目の「漢風絵画』を生成した。鶴亭は、訓読文の詩吟としする目から耳への「ゑ」つまり「詩吟(しぎん)」としての「漢風絵画」を生成した。
 漢詩には、一句漢字五文字が四句の起句・承句・転句・結句で構成される五言絶句の定型があり、唐の詩人孟浩然が詠んだ五言絶句に日本で最も知られた『春暁』がある。
 漢文の解読には、漢字を順に詠む韻文的な白文理解、レ点、一二三点、上中下点、甲乙丙点などの「返り点」を入れて、書き下して読む訓読文理解と、散文的な口語文理解の三つがあります。白文は韻文的な「耳と言葉」の理解、口語現代文は散文的な「目と言葉」の理解、訓読文はその中間の「手と言葉」の理解ということができる。
 若冲の動植綵絵の一つである『老松白(ろうしょうはっ)鶏図(けいず)』は、老松に太陽という長寿祝いの空間に一対の真っ白な雄鶏と雌鶏が寿の舞を一心不乱にステップしている動きの空間を演出している。それは五言絶句の漢字二〇文字を訓読文の「詩吟譜」の「ゑ」を再び五七五七七の短歌の〈畳み重ね〉の「耳」に戻し伝統的な箏曲に合わせることで「形而上学に開く」象徴の世界を成すことに成功している。「音」の視角六七、五度の終止形な絵音律の形容詞表象を中心に、「画」の視角二二、五度の描く画楽如の動詞表象が重なり、「絵」の視角四五度の名ざす刻彫戒の提題表象で了解するの大和絵のまなざしの「和風絵画」である。
 しかし宋紫石(そうしせき)も鶴亭も、絵を、白文の耳と口語文の手と訓読文の目の相反的な造形活動としての漢詩の書の行為と捉えていたと思われる。違いは紫石が白文のままの「漢風絵画」を目指したのに対して、鶴亭は訓読文を詩吟にする「漢風絵画」を目指したということである。
 宋紫石(そうしせき)の『聯珠争光図(れんじゅそうこうず)』は、初冬の雪景色を水墨の塗り残しで表し、料絹の裏側から着色し非分離な色合いを表出する裏彩色の技法で対比させ、鮮やかに発色した南天の朱丹の色を鮮烈に見せている。スズメ目ヒヨドリ科に分類される「シロガシラ」が南天の実を一つ啄んだ瞬間を「心に焼き付けている」。五言絶句の漢字二〇文字の「こゑ」をのまま「目」に示して「生活地面に開く」写実の世界である。「音」の視角六七、五度の終止形な絵画律の形容詞表象と、「画」の視角二二、五度の描く音楽如の動詞表象の二つを等価に交換する「絵」の視角四五度の名ざす彫刻戒の提題表象で調和する緊張の中国山水図のまなざしの「漢風絵画」である。鶴亭の『芭蕉図』(作品18)は、五言絶句の漢字二〇文字を訓読文の「詩吟譜」の「ゑ」を「耳」に示す「生活の地面に開く」象徴の世界である。「音」の視角六七、五度の終止形な絵音律の形容詞表象を中心に、「画」の視角二二、五度の描く画楽如の動詞表象が重なり、「絵」の視角四五度の名ざす刻彫戒の提題表象で了解するの大和絵のまなざしの「漢風絵画」である。
 画工は、世間を隔絶することそれ自体が「詩興」あると気づき、五言排律(十句以上の漢詩)を描き読む。五言排律の白文は紫石の見える《目》の「漢風絵画」の見る《スクリーン》であり、五言排律の訓読文の詩吟は海眼淨光の見える《目》の「漢風絵画」の見る《スクリーン》である。
 【出門多所思。春風吹吾衣。芳草生車轍。廃道入霞微。停留而瞩目。万象帯晴暉。聴黄鳥宛転。観落英紛蘼。行尽平蕪遠。題詩古寺扉。孤愁高雲際。大空断鴻帰。寸心何窈窕。縹渺忘是非。三十我欲老。韶光猶依々。逍遥随物化。悠然対芬菲。】
 画工の五言排律を読んでわたしたち美術かには、芳草生車轍や、万象帯晴暉、聴黄鳥宛転や、韶光猶依々、逍遥随物化から、紫石や海眼淨光の「漢風絵画」と同じ視覚と聴覚が感じられるが、春風吹吾衣、行尽平蕪遠、孤愁高雲際、大空断鴻帰などからは、江漢の富士シリーズ『相州鎌倉七里浜図』 『駿州薩陀山富士遠望図』『馬入川の富士図』 『江之島富士遠望図』 の広大な「西洋画」のまなざしを語っているように思える。
 同一性は、微細な植物であれ広大な風景であれ、紫石も海眼淨光も江漢も、モチーフを機械製図法の第一角に設定していることにある。しかし違いは、紫石や海眼淨光がを見える《目》の描写=dess-in特称の論理の享楽をモチーフに視角四五度の中国山水図のまなざしで、意図=dess-ein全称の水平軸面に見る《スクリーン》に抽象化した尺八に合わせたユークリッド幾何学の「漢風絵画」成立させているのに対して、江漢は垂直軸面の見る《スクリーン》を現実のなかに無として消し去って、その手前に設定した富士に風景を視角九〇度の西欧絵画のまなざしで、描写=dess-in特称と意図=dess-ein全称が一致する見える《目》だけの音のない(逆に言えば現実のすべての音に合わせた)倫理の狂気のユークリッド幾何学の「西洋画」を成立させているように思える。
 しかし若冲の『老松白(ろうしょうはっ)鶏図(けいず)』は画工の五言排律を、二次元から四次元に通じるトポロジー幾何学の五七五と七七の〈畳に重ね〉の和歌に読み替え箏曲に合わせた世界である。しかも、若冲のそれは、モチーフを雪舟の破墨山水図のように、機械製図法の第三角に設定し、垂直軸面の見る《スクリーン》の意図=dess-ein特称に透過する見える《目》の描写=dess-in全称の論理の享楽である。視角六七、五度の絵音律の形容詞表象の「こゑ」と「みゝ」、視角二二、五度の描く画楽如の動詞表象の「ゑ」と「め」、視角四五度の名ざす刻彫戒の提題表象の「もの」と「て」が何層にも重層しながら、二次元の「線」から四次元の「有の〈面〉」に通じるトポロジー幾何学の立体を、非定型のフラクタル幾何学を媒介にユークリッドの平面に調和させる「和風絵画」を成立させている。
   Ⅱ
 フラクタル =fractaleとは、数学者で経済学者のブノワ・マンデルブロ(1924-2010)によって1975年に提唱された新しい幾何学の概念で、不定形な海岸線、地面のひび割れ、画面に飛び散った偶然の絵具の形、植物の葉脈の形、不定形に思える生命形態などに一つの数学的法則を見い出す、ユークリッド幾何学を超えるトポロジー幾何学の数学的世界である。つまり伊藤若冲(1716-1800)はマンデンブロに二百年先駆けてアジア江戸に出現したフラクタル美学の数学者である。
 マンデルブロは数学者フェリックス・ハウスドルフが1918年に導入した、「線形代数」のベクトル空間の次元において、点、線分、正方形、立方体に推移するハウスドルフ次元では、点は0次元であり、線分は1次元であり、正方形は2次元であり、立方体は3次元であるとしたうえで、マンデンブロは、不定形な海岸線の1次元の形態のある一線分を取り出して、それが2次元のある全体の海岸線とトポロジー幾何学において1.1~1.4次元の相似形に重なることを発見し、「図形の部分と全体が自己相似形を為すもの」をラテン語のfractusからとって、「fractal=フラクタル」と呼んだのである。約十種のフラクタルの秩序の典型が造形美術のように提出されている。
 ①数学者ゲオルグ・カントールによって1883年に紹介された線分を三等分し、得られた3つの線分の真ん中のものを取り除くという操作を、再帰的に繰り返すことで作られるカントール集合。
 ②ポーランドの数学者シェルピンスキーのギャスケットと言われる無数の三角形からなる自己相似形の図形。
 ③スエーデンの数学者ヘルゲ・フォン・コッホが考案した線分を三等分し、分割した二点を頂点とする正三角形の作図を無限に繰り返して得られるコッホ曲線と呼ばれる図形。
 ④日本の数学者・高木貞治が1903年の論文で「連続だが至る所で微分不可能な関数」としての中点を再帰的に分割できるフラクタル曲線の一種を提案し高木曲線と呼ばれている。
 ⑤ヒルベルト曲線と呼ぶ空間を覆い尽くす空間充填曲線。
 ⑥ハウスドルフ次元の線分1次元の自己相似形を複素数のh平面2次元で無限に繰り返すマンデンブロ集合。
 ⑦ジュリア集合と呼ばれる2次元の複素平面のある近傍で反復関係をなす点の集合。
 ⑧立体に穴開けて自己相似形をなしたメンガーのスポンジ。
 ⑨明確なフラクタル図形をしたロマネスコと呼ばれる野菜=ブロッコリーがある。円錐はさらにそれ自体が螺旋を描いて配列し、これが数段階繰り返されて自己相似形の様相をなす。それは配列した蕾や円錐の数は巻貝の自己相似形にも見られるフィボナッチ数に一致することも知られている。
 ⑯個体数の成長指数 r が周期的に2つの値 a と b に切り替わるロジスティック写像(*a)をを拡張することで得られる分岐的な自己相似形のフラクタルであるリアプノフ・フラクタル。
 そもそも「部分と全体が自己相似形を為す」という概念は、レオナルド・ダ・ヴィンチを始めギリシア的自然科学を理想とするルネサンス芸術において造形の理想とされてきた考えである。したがって物体の全体を正面図・平面図・側面図の部分の区別する考え方やフィボナッチ数列(*1)の黄金比というような全体と部分の考え方は西欧ルネサンス芸術の根底となしていた。しかしレオナルド・ダ・ヴィンチでさえも、遠近法による現実の実測的再現としての一次元、二次元、三次元、四次元の十五世紀のユークリッド幾何学を限界にしたことによって、空間、次元、変換という概念による集合論的幾何学によって発展した二〇世紀のトポロジー幾何学を基盤にしたマンデンブロの精密な部分と全体の無限の自己相似形の世界を作り出すには遠く及ばなかった。
 勿論、若冲はトポロジーもフラクタルも知らなかった。しかし鶏と植物が細部を同じくして入り混じる『動植綵絵シリース()』の様々なの部分をみるかぎり全体と相似形をなす無限の数学行為を展開しており、蒔絵師が生乾きの漆の二次元の表面に、やり直しの効かない一回生の螺鈿や平文・平脱を象眼するアラベスク模様の「超絶対行為」が、機械製図法の第三角に設定した、垂直軸面の見る《スクリーン》の意図=dess-ein特称に透過する見える《目》の描写=dess-in全称の論理の享楽として展開されている。
 若冲は、十八世紀日本の「禅=円相」五七五の《俳句》の〈畳み重ね〉の原理に一致させて、二次元の「線」の描く画楽如の「ゑ」から、四次元の〈有の「面」〉の終止形な絵音律の「こゑ」に通じる虫の目の「数学原理」を何回も何回も繰り返し実験し完璧に把握していた。つまり若冲のすべての絵の行為は、非定型の生活の地に嵌め込まれた、部分が全体と相似形を成すやり直しの効かない一回生の定型の螺鈿や平文・平脱を象眼するアラベスク模様の行為である。それは、「禅=円相図」を五七五の《俳句》の〈畳み重ね〉の原理に一致して、二次元の「線」の描く画楽如の「ゑ」から、四次元の〈有の「面」〉の終止形な絵音律の「こゑ」に〈畳み重ね〉るように通じて全体と部分が相似形を名ざす刻彫戒ことを一単位とする無限な自己相似形の螺鈿、平文・平脱を象眼するのロマン主義の「和風絵画」として作り出すことに見事に成功し、二〇世紀のトポロジー幾何学とフラクタル幾何学を先んじた数学原理を示しえている。
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 『動植綵絵シリース(作品)』には、細部(い・ろ・は・に・ほ・へ・と)の図(figure)の〈言葉〉が地(ground)の〈物〉が、恰も①カントール集合のようにネガ=ポジ一分一の無限の二等分を繰り返す螺鈿、平文・平脱の象眼技術で入れ替わる二次元の「線」の描く画楽如の「ゑ」から、四次元の〈有の「面」〉の終止形な絵音律の「こゑ」に虫の目で通じながら無限の自己相似形の《もののことば》をなしているのがみえる。各部分例えば「い」などは②シェルピンスキーのギャスケットのように全体の自己相似形をなし、植物も動物もその線は③コッホ曲線や、④高木曲線に通じており、画面全体からは、⑤ヒルベルト曲線のような有機的な空間充填曲線の分割軸が貫かれ画面を立体にしている。二次元平面で1次元の自己相似形を無限に繰り返す⑥マンデンブロ集合やジュリア集合の線の「と」や、有機的に分散する「と」のようなロジステックス写像を拡張して作られる、自己相似形のリノアフラクタルを見ることができる。ロジステックス写像については『動植綵絵-秋塘群雀図-作品05』によく表されている。
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 自己相似形のフラクタル的な韻律で語り出した言葉が、モチーフを選択し、その定型あるいは非定型が転換して喩を見出して、非定型あるいは定型において終わる、絶対に、やり直しの効かない定型であることと非定型であることの差異のない行為と同じ一回生の、順序と完備の定型と非定型を超えた螺鈿や平文・平脱を象眼する「詩の行為」であることを直観していたのは漱石である。漱石の『草枕』には、螺鈿や平文・平脱の自己相似形を若冲が象眼するアラベスク模様のように嵌め込んだ虫の目の「命」の絵画の断片が見られる。
 【今余が辛抱して向き合うべく余儀無くされている鏡は慥(たし)かに最前から余を侮辱している。右を向くと顔中鼻になる。左を出すと口が耳元まで避ける。仰向(あおむ)くと蟾蜍(ひきがえる)を前から見た様に真(まっ)平(たいら)に圧し潰(つぶ)され、少しこごむと福禄寿(ふくろくじゅ)の祈誓児(もうしご)の様に頭がせり出してくる。苟(いやしく)もこの鏡に対する間は一人で色々な化物を兼勤(けんきん)しなくてはならぬ。写るわが顔の美術的ならぬは先(ま)ず我慢するとしても、鏡の構造やら、色合いや、銀紙の剝(は)げ落ちて、光線が通り抜ける模様などを総合して考えると、この道具その物からが醜態を極めている。小人(しょうじん)から罵詈(ばり)されるとき、罵詈それ自身は別に痛痒(つうよう)を感ぜぬが、その小人の面前に起臥(きが)しなけらばならぬとすれば、誰(だれ)しも不愉快だろう。】63p
【舟は面白い程やすらかに流れる。左右の岸には土筆でも生えておりそうな、土堤の上には柳が多くみえる。まばらに、低い家がその間から藁屋根を出し、煤けた窓を出し。時によると白い家鴨はがあがあと鳴いて川の仲まで出て来る。
 柳と柳の間の的歴と光るのは白桃らしい。とんかたんと機を織つ音が聞こえる。とんかたんの絶え間から女の唄が、はああい、いようう--------と水の上まで響く。何を唄うのやら一向に分からぬ。】171p
 前の文は、画工が床屋で鏡を前にしての「道具」という「小人」の前で起臥しなければならない人生の不愉快を書いた一節であり、後ろの文は『草枕』の最後の章であり、人情世界を離れ非人情を歩くなか、戦争(日露戦争)という人情と非人情を超えた国家の行動に参加する青年とその家族に同伴して川舟で停車場(ステーション)まで同行するシーンである。画工は「文明の長蛇は口から黒い煙を吐く」と人情と非人情を超える停車場(ステーション)の蒸気機関車を受け入れる・・・。従って川舟のシーンは、日常の風景が自分と無関係に流れ、動き、自律して存在していることを、虚無として受け入れている『草枕』の結論の一節である。
 しかし「不愉快で」あれ「虚無」であれ、これは漱石が理念として画工に語らせている倫理の狂気ではない。逆に言葉という論理の享楽を鮮明に示しているのである。
 《右を向くと顔中鼻になる》と《左を出すと口が耳元まで避ける》の一対一と、《舟は面白い程》《やすらかに流れる》の一対一のカントール集合に始まり、漱石は若冲の様に、その図と地の螺鈿と平文・平脱の無限のコッホ曲線の様な順序の見える《目》を自己相似形の象嵌の見る《スクリーン》に完備していく。見える順序の《目》と見る完備の《スクリーン》で、やり直しの効かない若冲の流麗に象り螺鈿・平文をつくる毛筆の線にように七五調の無意識が〈畳がさね〉に捉えていく。
 【仰向くと=五】《蟾蜍を=六/前から=四/見た様に=五/真平に=五/圧し潰され=六》《少しこごむと=七》《福禄寿の=六/祈誓児の=五/様に頭が=七/せり出してくる=七》であり、【左右の岸には=八】《土筆でも=五/生えておりそうな=八/土堤の上には=七/柳が多く=七/みえる=三/まばらに=四/低い家が=六/その間から=七/藁屋根を出し=七/煤けた窓を=七/出し=二/時によると=六/白い家鴨は=七/があがあと鳴いて=八/川の中=五/まで出て来る=六》である。内観的な前者の文の方が、外観的な後者の文よりも七五調に近い理由は、見る完備の《スクリーン》の定型に従って見える順序の《目》がつくられている前者に対して、後者は見える順序の《目》の非定型に従って見る完備の《スクリーン》がつくられているからである。
 若冲と漱石は、二次元の紙面の上の惰性的な広がりに命あ与えるべく、「禅=円相図」に五七五の《俳句》の〈畳み重ね〉の芭蕉の原理を一致させて、画面料紙や原稿用紙に、二次元の見える順序の《目》の「線」の描く画楽如の「ゑ」から、四次元の見る完備の《スクリーン》の〈有の「面」〉の終止形な絵音律の「こゑ」に通じる「虫の目」のトポロジー幾何学の直観において、部分と全体の無限な自己相似形のフラクタル幾何学とする《もののことば》の「和風絵画」と「写生絵画文」を作り出すことに成功している。だから若冲と漱石は、芭蕉の「円相」の原理において「絵と画」を互いに一分一の無限なカントールの集合の自己相似形をなしている。つまり《鏡の構造やら、色合いや、銀紙のはげ落ちて、光線が通り抜ける模様など》という空間の関係性まで仕事が広げられ、《柳と柳の間の的歴と光るのは白桃らしい。とんかたんと機を織つ音が聞こえる》という了解の時間性にまで仕事が進んだ時、若冲と漱石の象嵌と平文・平脱の漆技法の様な二次元の「線」の見える順序の《目》「ゑ」行為は、見えない枕詞を内包する四次元の〈有の「面」〉の見る完備の《スクリーン》の終止形な絵音律の「こゑ」による、「画」の言葉と、「絵」の言葉で最後を締めくくる。若冲は絵を言葉に換える様にして、漱石は言葉を絵に換える様にして・・・。
   Ⅲ
 十種のフラクタルの秩序の全てが反映している若冲のトポロジー幾何学には、五七五の《俳句》が成立してきた〈畳が重ね〉の写生の詩→物語→劇の文化史が色濃く関わっている。
 韻律と選択の五七五を上句と転換と喩の七七の下句を〈畳み重ね〉とする詩的述語面の和歌が、〈畳が重ね〉の枕詞を物語的述語面において排除したように、短歌は、劇的述語面で、転換と喩の七七の下句を現実の場面に委ねて排除する、韻律と選択のだけの五七五の《俳句》が生成してきたのである。
 枕詞は、画が画を反復する画中画(がちゅうが)の象徴をつくりだすように、言葉が言葉を反復する歌の〈畳み重ね〉の韻律と選択で象徴化する言葉である。詩的述語面で、枕詞を持つ韻律と選択の五七五が七七に〈畳み重ね〉られたとき転換と喩の物語性を和歌が内包し、多様な短歌表現が生まれることになった。そして五七五-七七の〈畳み重ね〉の物語的述語面の三十一文字で、韻律と選択の歌と転換と喩の物語を和歌で歌うようになったとき、枕詞は古く余分になものとなり和歌から消えていくのである。その後、短歌が劇的述語面で五七五-七七の〈畳み重ね〉を展開するとき、五七五の韻律と選択の背景で見えない「枕詞」の「或るば所」の劇的述語面で自立した〈畳み重ね〉が成立し、七七の転換と喩は間延びした物語性となって、短歌にとって不必要に見えはじめる。そこで、五七五の韻律と選択に見えない「枕詞」の〈畳み重ね〉の「或るば所」の劇的述語面が支える芭蕉の画中画(がちゅうが)の《俳句》が登場するのである。
 江戸時代、劇的述語面の五七五は俳句と川柳の二種類が生まれた。違いは、劇的述語面で自立した見えない「枕詞」の「或るば所」の〈畳が重ね〉を画中画(がちゅうが)に内包する五七五の韻律と選択の《俳句》と、劇的述語面と物語的に繋がった〈畳が重ね〉の画外画(ががいが)の五七五の韻律と選択の《川柳》との違いである。
 そして耳の《俳句》や《川柳》の五七五に〈畳に重ね〉て、目の「遠近法」を用いる写生としての版画の「浮世絵」が流行するのである。よくて俳句の美学であり俗ぽっい川柳の美学の「浮世絵」は、坊主が語る地獄や極楽があるとは思えない、死んだら全てがお終いの一回限りの人生を、どうせ生きるなら面白く生きたと「生活に地面」の上に咲く儚い庶民芸であり、反物や蒔絵など高級美術の下部商品でしかなかった。
 若冲は、反物や蒔絵の漆器などの高級美術を超える平安の五七五-七七の「和歌」の〈畳が重ね〉に通じる見えない「枕詞」の「或るば所」としての「和風絵画」を求めた。つまり反物や蒔絵の漆器は命のない単なる物でしかない。だから「生命」としての動植物のの博物的な絵音律の心的現象を二次元の線から四次元の〈有の「面」〉に繋がるトポロジー幾何学の立体としての「和風絵画」を求めることになっていったのである。
 八百屋や魚屋が軒を連ねる海の幸や山の幸に囲まれた京の胃袋、錦小路の青物問屋・枡源(ますげん)の長男に生まれた若冲は、魚や野菜など命あるものを人が食べて命を育み、命を産む、そして死ぬ、この世の命というものに幼い頃から最大の関心を持った。魚を観察し、野菜を観察し、野菜についた虫を飽くことなく観察し、そして筆で写すようになった。三〇歳を過ぎて稼業の傍、絵を学ぶ決意をし、狩野派の門を叩いたが、そこには自分がめざす命の表現がないと感じ、通うことを辞め、代わりに多くの中国画名画を所蔵していた京都の各寺に模写をさせてくれと足を運んで頼み込み、独学で命の表現を求めていった。寺院通いを続けるうち、当時の禅僧が大乗経として読んでいた法華経を学びながら若冲は修行僧のように頭を剃り、肉食も避けて、自ら『平安錦街居士』と称するようになった。
 しかし日常の「生活の地面」は、絵を「形而上学に開こう」とする若冲の探求を妨げる雑事に溢れていた。ある時、若冲は店を家人に任せて一人丹波の山奥に禅僧のように篭る。生き物の内側には命を支える神気が潜んでいると感じ、庭で数羽の鶏を飼い、鶏の生態とひたすら一体となろうとした。そして鶏の命の数学を捉え自ずから絵筆が動き出した。世間を絶った二年間、鶏だけでなく、草木や岩にまで命の数学見えはじめ、あらゆる命と共に筆が動くにようなる。それは二次元の「線」が四次元の〈有の「面」〉に繋がるトポロジーの生命と、絵具と筆が生成する物質形態のフラクタルの生命の結合だった。そこで若冲は『鶴図』に見られるように「禅の円相図」の理念を応用して、全体と部分が相似形となる、フラクタルのトポロジー幾何学または、トポロジーのフラクタル幾何学を、絵を命に生成し、命を絵に生成する「形而上学的数学」としての「和風絵画」をモノにした。
 二年後の宝暦五年(1758)、帰宅した若冲は、四〇歳で弟に家督を譲って隠居する。弟は兄を理解し、画業を経済面から支えた。以後、若冲は四半世紀の間ずっと作画に専念する。
 宝暦八年(1758)の若冲四二歳、裏彩色(うらざいしき)などの工夫を凝らした『雪梅雄鶏図』と『雪中雄鶏図』(作品24)を製作する。雪深い竹林を歩く一羽の雄鶏の姿態は、南蘋派(なんぴんは)の熊代熊斐(くましろゆうひ)にもみられ、宋紫石(そうしせき)や海眼淨光らの南蘋派(なんぴんは)の影響がみられると云われている。しかし絹に裏彩色(うらざいしき)などの工夫を凝らした若冲のそれは、南蘋派(なんぴんは)の漢風絵画に比べて、フラクタルな自己相似形で表現されたねっとりとして真っ白の胡粉の物質感は暖かささえ感じさせる豊かさである。特に『雪中雄鶏図』では、溶け出した笹の雪の雪に黒い尾の雄鶏が脚を蹴り上げたし瞬間に、沢山の水氷の丸い粒が落ちているそれは、笹から雪落ちる雪の自己相似形のフラクタル図形と、一本脚で立った雄鶏の羽の一枚一枚が揺れる長い黒い尾につながる自己相似形のフラクタル図形とが出会った緊張を構成している。、
 その後、若冲の代表作となる濃彩花鳥画『動植綵絵(さいえ)シリーズ』に着手する。単に動植物を分類して楽しんだのではない。命の動植物の博物学的広がりを、此の世の背景として終止形な絵音律の心的現象を成す多様な数学的な世界と若冲は考えた。魚市場や八百屋から買ってきてはモチーフに描き、完成まで十年を要した同シリーズは『郡鶏(ぐんけい)図』『雪中錦鶏図』『群魚図』『池辺群虫図』『秋塘(しゅうとう)群雀図』など、全三十幅のさまざな命の終止形な絵音律の違いを捉えた大作を仕上げる。
 『動植綵絵/秋塘(しゅうとう)群雀図(作品25)』は、急降下してくる群れの雀の中に全身が白い雀が一羽混ざっており、それが見る《スクリーン》の入り口をつくっている。下に散らばる栗をめがけて急降下してくる画面上部は整った雀群の体系をなしたリズムが生まれているが、画面下部に書では別の雀の集団が自由に栗の間の虫を啄んで遊んでいる。しかし、全体を《スクリーン》として見ると、白い雀を基点に、上部の整った雀の定型と、下の散漫に見える遊ぶ雀と栗と枝と葉の形は、移動する空間の自己相似形のロジステック写像としてのフラクタル図形の見える《目》の享楽の論理を成しているのがわかる。
 学芸員の報告では、「雀の体や栗の部分には、黄土による裏彩色が施され、雀の目は一つ一つ黒漆で丹念に点を打っている。緑色の栗の葉は、緑青と緑色の染料で描き、部分的には裏からも青色(裏彩色)が入れてある」と若冲の情熱を伝えている。
 『動植綵絵(さいえ)シリーズ』を続けていたその最中の、明和五年(1768)には、庭梅(にわうめ)、幣辛夷(しでこぶし)、連翹(れんぎょう)、梨、藤、山躑(やまつ)躅(じ)、水葵(みずあおい)、糸瓜(へちま)、紫陽花(あじさい)、冬葵(ふゆあおい)、石竹(せきちく)、梅花藻(ばいかも)、檀特(だんとく)、華鬘草(けまんそう)、向日葵(ひまわり)、岩菲(がんぴ)、一茎九華(いっけいきゅうか)、行者の水、未草(ひつじぐさ)、鶏頭(けいとう)、瓢箪(ひょうたん)、夾竹(きょうち)桃(くとう)、花菖蒲(はなしょうぶ)、棕櫚(しゅろ)、朝顔、未央柳(びおうやなぎ)、大豆、酔芙蓉(すいふよう)、薊(あざみ)、栗、菊、貴船菊(きぶねぎく)、大根、蔓茘枝(つるれいし)、蕪、鳳仙花(ほうせんか)、茄子、大角豆(ささげ)、南瓜(かぼちゃ)、浜梨、玉蜀黍(とうもろこし)、葵蔓(あおいかずら)、天南星(てんなんしょう)、芭蕉、南天、山萩、枝垂柳(しだれやなぎ)・・・四八種の花弁や蔬菜を大胆かつ繊細に捉え、それぞれを一体の住まいとする蜻蛉(とんぼ)や蝶、蟷螂(かまきり)や蜘蛛、亀や蛙の姿が植物をの様子をネガポジの一分の一の自己相似形に統一して『玄圃瑤華(作品26)』と題した、紙本拓版の一帖四八図を製作している。ネガとポジの白と黒の一分一で、対象世界を二等分した集合が、さらに無限に二等分を繰り返す微細な線の単位に全体が支えられるカントール集合の緊張感で埋め尽くされた享楽の論理の作品である。若冲は、このような植物、昆虫、小動物の経験から、全体が部分の説明であり、部分が全体の説明である絹本着彩の『糸瓜群虫図(作品27)』を作品化している。
   Ⅳ
 天明二年(1782)司馬江漢が、レンブラントが完成した木版浮世絵を超える腐蝕銅版画を眼鏡絵(めがねえ)の使用価値に応用し、複製技術を交換価値とした『三囲景図(みめぐりけいず)(作品19)』を発表した六年後の天明八年(1788)、若冲七二歳の時突然『天明の大火』が襲い、焼け出されて大阪へ逃れ西福寺に身を寄せた。私財を失った若冲は初めて家計の為に絵を描くことになり、自己相似形の交換価値を西福寺への贈与価値とする「和風絵画」を制作した。寛政二年(1790)西福寺の金地の襖に描いた『仙(サ)人(ボ)掌(テン)群鶏図襖(作品28)』である。
 若冲は京阪の文芸界と繋がりがあった。黄檗僧。蘭州浄芳、儒者・吉川幾右衛門、西福寺住職・了欽上人を中心に、西福寺檀家薬種商・吉野家が支援者としてネットワークが構成されていた。若冲もその中の一人だった。『仙(サ)人(ボ)掌(テン)群鶏図襖(作品28)』は、西福寺の本堂を飾る襖絵である。左右のサボテンの輪郭は明らかにマンデンブロ集合やコッホ曲線やリアプノフ・フラクタルが感じられ、自己相似形のフラクタルが感じられ、雌鳥の羽には高木曲線が、雄鶏の跳ね上がった黒い羽にはフィボナッチ数列の秩序がある。正面を向く雄鶏の顔を近づいてい見ると部分と全体の相似形が見えてくる。
 江漢の銅版画の『三囲景図(みめぐりけいず)』は、人が知らない風景の見る《スクリーン》の客観を誰もが見える《目》の主観にしたのに対して、若冲の『仙(サ)人(ボ)掌(テン)群鶏図襖』は誰もが知っている見える《目》の主観の鶏を、を初めて見る《スクリーン》の客観の鶏として表現した。つまり、江漢は見える《目》の主体化を複製し個々の見る《スクリーン》の主体化を抑圧したのに対して、若冲は見る《スクリーン》の主体化を提出し、個々に見える《目》の主体化を解放したのである。
 その一方で「サボテン=仙人掌」はまだあまり人の知らない珍しい植物であり、仙人(せんにん)の掌(て)と表記するほど不思議な印象であった。『草枕』の旅の画工も、観海寺の石段を登って山門を入ったとき【本堂の端から端まで一列に行儀よく並んで躍っている】月下の妙な影を見つける。【近寄って見ると大きな覇王樹(サボテン)である。高さは七八尺もあろう、糸瓜程な青い胡瓜を、杓子の様に圧しひしゃげて、柄の方を下に、上へ上へと継ぎ合わせた様に見える。あの杓子がいくつ繋がったら、御仕舞になるのか分からない】と、見る《スクリーン》の了解性から見える《目》の空間性を語る。そして【今夜のうちにも廂を突き破って、屋根瓦の上まで出そうだ。あの杓子が出来る時には、何でも不意に、どこからか出て来て、ぴしゃりと飛び付くに違いない。古い杓子が新しい杓子を生んで、その小杓子が長い年月のうちに段々大きくなるとは思われない。杓子と杓子の連続が如何(いか)にも突飛である】と、見える《目》の空間性から見る《スクリーン》の了解性を五七五の俳句のように〈畳み重ね〉る。そして【こんな滑稽な樹はたんとあるまい。しかも澄ましたものだ。いかなる是仏(これぶつ)と問われて、庭前の柏樹子(はくじゅし)と答えた僧があるよしだが、もし同様の問に接した場合は、余は一も二もなく、月下の覇王樹(サボテン)と応えるであろう】と、上句五七五に下句七七を付け加えるように〈畳み重ね〉て短歌的に閉じている。(140p)
 若冲は誰もが知っている鶏を自己相似形(フラクタル)の見る《スクリーン》の了解性で見える《目》の新しい鶏を示しているが、まだ誰もが知らない「覇王樹(サボテン)=仙人掌(サボテン)」は、《糸瓜程な青い胡瓜を、杓子の様に圧しひしゃげて、柄の方を下に、上へ上へと継ぎ合わせた様に》見える《目》の空間性を、見る《スクリーン》の了解性に向かって展開していくことになる。つまり見える《目》の「継ぎ合わせた杓子」の空間性を、自己相似形(フラクタル)の見る《スクリーン》の「覇王樹(サボテン)=仙人掌(サボテン)」の了解性に向かって微分的に分解していくのである。
 そこで若冲は、《杓子の様に圧しひしゃげて、柄の方を下に、上へ上へと継ぎ合わせた》自己相似形に、「継ぎ合わせた杓子」の空間性と自己相似形(フラクタル)の見る《スクリーン》の「覇王樹(サボテン)=仙人掌(サボテン)」の了解性に向かって微分した自己相似形(フラクタル)の抽象形態を〈畳み重ね〉ているのである(図)。戯れ合っているように見える鶏の尾と仙人掌(サボテン)の杓子をみると、画工が禅問答の《是仏(これぶつ)と問われて(仏とは何かと問われて)》、《月下の覇王樹(サボテン)と応える》と言っているように、若冲も『是仏(これぶつ)とは鶏と遊ぶ仙人掌(サボテン)』と応えているのが伝わってくる。
 寛政二年(1791)若冲七四歳から最後の十年間は、京都深草の石峯(せきほう)寺の門前に庵を結び、二次元の自己相似形のフラクタルの平面が四次元のトポオロジーの立体に繋がる享楽の論理の作品『鳥獣花木図屏風(作品29)』六曲一双に挑戦する。一双の左隻・右隻を通じて一辺1.1cmの升目(ドッド)を、八万六千個持つ、モザイク状の画面は、赤、橙、青、黄、緑、紫、紅、白、黒、灰色を、純色でデジタル化して用いられ、青と橙、赤と緑、紫と黄の補色関係の一分一や、白と黒、明灰、暗灰の一分一の関係を無限に二等分すし部分と全体が一致するカントール集合の緊張で明るい光の色彩が響きあう論理の享楽の理論化の行為の「和風絵画」である。
 寛政四年(1792)若冲七六歳の時、弟が他界し、最晩年の若冲は、石峯寺の本堂背後に釈迦の誕生から涅槃までの一代記を描いた石仏群・五百羅漢像を築く計画を練る。若冲が下絵を描き石工が彫り上げた五百羅漢像は、住職と妹の協力を得て十年弱で完成した。司馬江漢が、死の五年前「死亡通知」を出して西洋画の透明にするまなざしと一体となり、倫理の狂気となりつつある近代社会の時代のなかに自己を放棄する様に死んだ文化十年(1813)を遡る寛政十二年(1800)に、若冲は、自らの和風絵画の自己相似形の享楽の論理の透明になるまなざしに向かって大往生を果たし終わっていたのである。
 死とエロスの「形而上学に開く」短歌としての「和風絵画」であったが、その生命性に必要な諧謔(ユーモア)を交えることを忘れなかった。それが抹香臭い宗教画であればなおさらその諧謔(ユーモア)精神が発揮された。金閣寺に描かれた水墨画「大書院障壁画」に、野菜を使って釈迦の入滅を描いた水墨画『果蔬涅槃図(作品)』がある。一般的の涅槃図では周囲で十大弟子や菩薩、動物までもが悲しみに慟哭している。しかし若冲は野菜を用いて描いた。中央の大根(釈迦)の周囲を茄子や胡瓜が取り巻き、嘆いている。背後の沙羅双樹は玉蜀黍である。登場する野菜の数は実に六六種類。中には、ライチやランブータンなど大陸輸入の珍しい果物もある。若冲の紙本墨絵が明るい諧謔性(ユーモア)を感じさせ、雪舟のような水墨画特有の湿り気を感じさせないのは、野菜が釈迦や菩薩を演じているからだけではない。そこには和風に抑圧された重く暗い大和絵を、明るくしかも力強く解放する「和風絵画」の力が潜んでいる。
 島国〈クニ〉天つ神の経師の〈有の「面」〉で勃興する「七五調に自由化する」宣長の「もののあわれ」の国学の欺瞞を隠す円山応挙の『江戸和風の大和絵』に対して、新しい清の漢風をとりいれた清の南蘋を始祖とする熊代熊斐(くましろゆうひ)、宋紫石(そうしせき)、海眼淨光らが島国〈クニ〉天つ罪の梵唄が〈線〉において、五言絶句や五言排律などの漢詩や詩吟を「耳」に透明にされる「漢風絵画」としての南蘋派(なんぴんは)を成立させた。すでに長崎から蘭学を媒介して一点透視の製図的遠近法が入り平賀源内や杉田玄白らによって精密な解剖学の『解体新書』も訳され、漢詩や詩吟を規範とする「耳」の「漢風絵画」にたいして、「耳」の視覚に対する不透明な干渉を排除して、純粋に透明にする「網膜=retina」の散文化を目指した地球儀〈ツチ〉国つ罪の念佛の〈点〉の司馬江漢が出現し「和製洋画」を達成する時代、若冲は、漢詩や詩吟が発見した「耳」に透明にされる「漢風絵画」としての南蘋派(なんぴんは)を、「瞳=pupilと網膜=retina」の《スクリーン》と《目》の間に生まれる二次元の線から四次元の面に通じるトポロジー幾何学の立体であることを、峡嶋〈ツチ〉国つ神の唱導の〈無〉において自覚し、耳と目と手が統合する「和風絵画」を成立させるのである。
 わざわざ対象をみなくても、画面としての《スクリーン》が見るそこには、すでに見える《目》のフラクタル幾何学の享楽の夢が出現している。これを真骨頂として、名人の唱導師のように若冲は人を享楽させる前に自ら深く享楽するのである。
 墨の滲みの限界を計算した上で、白地(ground)と墨図(figure)の境界を、螺鈿や平文・平脱の象嵌で嵌め込むように造るかのように描くことで、その境界線がマンデンブロ集合やジュリア集合に類似したロジステック写像の自己相似形の論理の享楽を「和風絵画」としているのである。
 また小さな些細な者たちにも、可愛い諧謔精神で命を讃えることを忘れなかった。『伏見人形図』である。京都伏見稲荷の付近で稲荷山の殖土で作った人形で、『米斗翁八十五歳画』と記され「米と交換した」最晩年の作品である。自己相似形の七福神の軍配を持つ布袋が並んで行進しくる伏見人形。八四歳、人形にフラクタル象嵌図形の命を与える若冲がいる。


和風絵画の若冲と和製洋画の江漢、草枕にそって/了
  
   

まなざしの論理no.19=03

まなざしの論理no.19=03
和風絵画の若冲と和製洋画の江漢、草枕にそって/その三

 日本近世の大和絵は、浮世絵の登場に疎外されて和製洋画に向かった司馬江漢と和風絵画を確立した伊藤若冲の二つの系で、明治近代絵画へと変遷してく。これを夏目漱石の『草枕』の語り手「画工」の目が捉えているものを借りながら整理していく。『和風絵画の若冲と和製洋画の江漢、草枕にそって』と題して、何回かに、分けて書いていくことにする。今回は「その三」である。


草枕、七五調、写生(デッサン)、畳み重ね★

 【山路(やまみち)を 登りながら こう考えた 智(ち)に働けば 角(かど)が立つ 情(じょう)に棹(さお)させば 流される 意地を通せば 窮屈だ 兎角(とかく)に人の 世は 住みにくい】は、《五六七-七五-八五-七五-七七》の七五調の音数律が際立つ『草枕』の書き出しの一説である。
2017mana-19-03-1
sakura takwara sagasi 2017
 しかし漱石は五七五-七七の短歌を考えているわけではない。対象を短歌的気分で写生(デッサン)する口語自由律が結果的に物語的な「無意識の七五調」になっているだけである。日本語の言葉の背後で機能する原生的疎外の全称の「述語制」における差異としての「無意識の七五調」の純粋疎外の特称である。
 しかし漱石は、短歌のように五七五-七七に収めようとする「七五調」の特称を意識しているわけでも、また全称の「述語制」の「無意識の七五調」を自由口語律として特別に意識しているわけでもない。にもかかわらず、現代文として書いた結果がすっきりと七五調長歌の写生(デッサン)になっている。
 ここには「写生画」のゑのエクリチュールが、描写=dess-in=全称の原生的疎外に、意図=dess-ein=特称の純粋疎外の意味を内包している行為であると同時に、「写生文」のこゑのエクリチュールが、五七五上句十七文字による意図=dess-ein=全称の韻律・選択としての「七五調の無意識」に、七七下句十四文字による描写=dessin=特称の転換・喩の「七五調の無意識」が内包されることが関係している。
 つまり漱石の「写生画」のゑのエクリチュールは、非定型の「無意識の七五調」を自由口語律に従う描写=dess-in=全称の原生的疎外に、意図=dess-ein=特称の純粋疎外が内包される行為として徹底され、七七下句十四文字による描写=dessinの転換・喩の「七五調の無意識」に、五七五上句十七文字による意図=dess-einの韻律・選択が内包される「写生文」のこゑのエクリチュールを『草枕』の主人公=自分自身でもある若い画工(えかき)の「非定型」の現代詩として展開させている。
 そこには万葉の和歌にまで遡及し長歌や連歌や俳諧や俳句に連なる「写生画」の描写=dess-in=全称の韻律・選択の原生的疎外に、「写生文」の意図=dess-ein=特称の転換・喩の純粋疎外が内包される痕跡がある。ここで重要なことは、「写生画」と「写生文」では、韻律・選択と転換・喩、意図と描写、原生的疎外と純粋疎外、全称と特称が転倒する相反的な関係にあるということである。
 夏目漱石の場所で、写生画に従う「無意識の七五調」の〈写生文〉と、伊藤若冲の場所で、写生文に従う「無意識の七五調」の〈写生画〉が、韻律・選択と転換・喩、意図と描写、原生的疎外と純粋疎外、全称と特称が複雑に絡み合い、批評と注釈の〈写生文〉の漱石の小説が書かれ、注釈と批評の〈写生画〉の絵画としての若冲の大和絵が生まれる可能性を開いてみせる。
 漱石は『草枕』において、若冲は『大和絵』において、主体の主体化と、作者の主体化と、作家=語り手=描き手の主体化の三者の〈写生文〉または〈写生画〉の主体化が「言葉または美術」の主体化を生み出していく可能性を『小説』として、『絵画としての大和絵』として取り組んでみせる。
 言葉を〈主体〉とする〈作者〉漱石は、「余(よ)」と自分を呼ぶ語り手=若冲の非人情の精神を引く若き画工(えかき)を、『草枕』の〈作家〉として設定し、山道を歩きながら、偶然にであう様々な事象の了解性=関係性/時間化度=空間化度の触覚的な〈現在〉のまなざしの中に、言葉の了解性=時間化度の聴覚的な〈現実〉のまなざしと、関係性=空間化度の視覚的な〈現前〉のまなざしを重ねて、言葉の『絵画』を「写生的小説」として作り出すのである。
 耳の「こゑ」の文学がはじめて目の「ゑ」の文学になった、遥か万葉集の時代の三十一文字の和歌は、語る〈現在〉に、時空を超えて〈現実〉と〈現前〉を蘇らせ力がある。
 そこで画工=余=語り手は、【・・・冴(さ)える程の春の夜(よ)だ。気の所爲(せい)か、誰(だれ)か小声で歌っている様な気がする。夢のなかの歌が、この世へ抜け出したのが、或(あるい)はこの世の声が遠き夢の国へ、うつつながらに紛れ込んだのかと耳を峠(そばた)てる】(草枕/新潮文庫34p)という散文の〈現在〉に、【・・・その聞こえぬ筈(はず)のものがよく聞える。あきづけば、をばなが上に、おく露の、けぬべくもわは、おもほゆるかもと長良の乙女の歌を、繰り返し繰り返す様に思われる】(同p)と、「あきづけば、をばな上に、おく露の、けぬべくもわは、おもほゆるかも」の万葉集の日置長枝娘子(へきながえをとめ)の写生文の〈現実〉に写生画の〈現前〉を紛れ込ませる。漱石の『草枕』の画工=余は、〈写生画〉と〈写生文〉を一致させ、写生画の〈現前〉が、写生文の〈現実〉と写生の〈現在〉を統合する写生技術を示して見せる。《聞こえぬ筈のものがよく聞える。あきづけば、をばな上に、おく露の、けぬべくもわは、おもほゆるかと長良の乙女の歌を、繰り返し繰り返す様に思われる》という、〈現在〉の触覚の中に、万葉の〈現実〉の聴覚と、〈現前〉の視覚の〈写生画/写生文〉が入り混じり、《あきづけば をばながうへにおくつゆの けぬべくもわは おもほゆるかも/五七五 七七》の音数律を解体して、聴覚の〈現実〉文と、触覚の〈現在〉を、視覚の〈現前〉の口語自由律の写生技術に統合した三十一文字の『余=画工=語り手』の恒久的に「関心をもつから否定」となる「現代詩」が出現している。
 わたしたち美術家は、漱石自身らしき画工(えかき)が、西欧・詩的述語帯の劇的述語面で、〈現実〉の聴覚を、〈現前〉の視覚や〈現在〉の触覚から区別した「韻律・選択」として対象化する和楽音の場所を、さらに対象化して江戸・劇的述語帯の劇的述語面での韻律と選択で主題化される絵画としの大和絵の若冲の可能性を「俳句=劇的述語面」として開いていることを知る。
 明治三九年(1906)、日本現代文学の主題が、江戸文学の人情や西欧文学のロマンを超える「非人情」のまなざしにあることを鮮明にすべく漱石は、青年画工(えかき)を語り手として言葉を批評的に表現する実験作品『草枕』を発表した。
 【苦しんだり、怒ったり、騒いだり、泣いたりは人の世につきものだ。余も三十年の間それを仕通して、飽々(あきあき)した。】
 【ことに西洋の詩になると、人事が根本になるから所謂(いわゆる)詩歌(しいか)の純粋なるものもこの境(きょう)を解脱(げだつ)する事を知らぬ。どこまでも同情だとか、愛だとか、正義だとか、自由だとか、浮世の勧工場(かんこうば)にあるものだけで用を弁じている。いくら詩的になっても地面の上を馳(か)けあるいて、銭(ぜに)の勘定を忘れるひまがない。】
 【うれしい事に東洋の詩歌はそこを解脱したものがある。採(きくを)菊(とる)東籬下(とうりのもと)、悠然(ゆうぜんとして)見南山(なんざんをみる)。只それぎりの裏(うち)に暑苦しい世の中をまるで忘れた光景が出てくる。】
 【独(ひとり)坐幽篁裏(ゆうこうのうちにざし)、 弾琴(きんをだんじて)復(また)長嘯(ちょうしょうす)、深林人(しんりんひと)不知(しらず)、明月来(めいげつきたりて)相(あい)照(てらす)。只、二十字のうちに優に別乾坤(べつけんこん)を建立(こんりゅう)している。この乾坤の功(く)徳(どく)は「不如帰(ほととぎす)」や「金色夜叉(こんじきやしゃ)」の功徳ではない。汽船、汽車、権利、義務、道徳、礼儀で疲れ果てた後(のち)、凡(すべ)てを忘却してぐっすりと寝込(ねこ)む様な功徳である。】
 【こうやって、只一人絵の具箱と三脚几を担いで春の山路をのそのそ歩くのも全くこれが為である。淵明(えんめい)、王維(おうい)の詩境を直接自然から吸収して、すこしの間でも非人情の天地に逍遥(しょうよう)したいからの願(ねがい)。一つの酔興だ。】(漱石『草枕』新潮文庫12~13pから抜粋)
 漱石は、苦しんだり、怒ったり、騒いだり、泣いたりする人の世を描く、徳富蘆花の明治三二年(1899)の『不如帰(ほととぎす)』や、明治三〇年(1897)から明治三五年(1902)まで連載された尾崎紅葉の『金色夜叉(こんじきやしゃ)』を、汽船、汽車、権利、義務、道徳、礼儀の人事が根本になる西洋の詩文学(ロマン)と同じであり、五七五の韻律の終止形な絵音律の〈現前〉と五七五の選択の描く画楽如の〈現前〉に、転換・喩の七七の名ざす刻彫戒の〈現在〉を過剰に付け足す古典短歌の物語的ディスクールに抑圧された明治近代の主体化の強制を若い画工は感受するのである。
 《三十年の間それを仕通して、飽々(あきあき)した》と内省する若い画工を『草枕』の語り手=主人公に言わせる。
 そこで若冲の精神を引く漱石の若い画工は、中国六朝期から南朝宋において、田園に隠遁し、自ら農作業に従事しつつ日常生活に即した詩文を残し後世に隠逸詩人や田園詩人と呼ばれた文学者・陶淵明(とうえんめい)(365-423)や、唐朝最盛期、典雅静謐な詩風から詩仏と呼ばれ、南朝の淵明(えんめい)より続く自然詩を大成させた詩人、画家、書家、音楽家・王維(おうい)(699-759)のように生きようと決意するのである。そしてここで、王維(おうい)の描写=dess-inが鑑賞者の場所に、淵明(えんめい)の意図=dess-einが画工の場所に変容する。
 つまりまなざしを「語り手」とする近代英文学に則り、そこに淵明(えんめい)、王維(おうい)のまなざしを重ね、近代化する日本の複雑な転換・喩の名ざす彫刻戒の人間関係を離れて「非人情の場所」を率直に韻律の終止形な絵音律と、選択を描く画楽如のみで生きようと、若い画工が発見したものは、耳の韻律の終止形な絵音律と目の選択を描く画楽如の全称の描写=dess-inの五七五の「十七文字」の俳句的写生の行為に凝縮することで、手の転換・喩を名ざす刻彫戒の特称を、意図=dess-einの七七として、鑑賞者の短歌的解読の口語自由律に委ねることにある。
2017mana-19-03-2
sakura takwara sagasi 2017
 レオナルド、ダ、ヴィンチが【唯(ただ)、物は見様(みよう)でどうでもなる】と弟子に【あの鐘の音を聞け、鐘は一つだが、音はどうとも聞かれる】と語ったと云われるその〈詩的な立脚地に帰れる】手の転換と喩を名ざす刻彫戒の特称の鑑賞者の描写=dess-inの場所のことであり、画工は、【おのれの感じ、その物を、おのが前に据えつけて、その感じから一歩退いて有体に落ち付いて、他人らしくこれを検査する余地さえ作ればいい】という耳の韻律の終止形な絵音律と目の選択を描く画楽如の全称の意図=dess-einに立つということである。画工はその発見した詩人の境地を次のように語る。

 ◎詩人とは自分の屍骸(しがい)を、自分で解剖して、その病状を天下に発表する義務を有している。その方便は色々あるが、一番手近なのは何でも蚊(か)でも手当たり次第十七字にまとめて見るのが一番いい。十七字は詩形として尤(もっと)も軽便であるから、顔を洗う時にも、厠(かわや)に上(のぼ)った時にも、電車に乗った時にも、容易に出来る。十七文字が容易に出来ると云う意味は安直に詩人になれると云う意味であって、詩人になると云うのは一種の悟りであるから軽便だと云って侮蔑(ぶべつ)する必要はない。軽便であればある程功徳(くどく)になるから反(かえ)って尊重するべきものと思う。まあ一寸(ちょっと)腹が立つと仮定する。腹が立った所をすぐ十七文字にする。十七文字にするときは自分の腹立ちが既に他人に変じている。腹を立ったり、俳句を作ったり、そう一人が同時に働けるものではない。一寸涙をこぼす。この涙を十七字にする。するや否(いな)やうれしくなる。涙を十七文字に纏(まと)めた時には、苦しみの涙は自分から遊離して、おれは泣く事の出来る男だと云う嬉(うれ)しさだけの自分になる。これが平生(へいぜい)から余の主張である。
 ◎夏目漱石『草枕』新潮文庫38~39p

 これを吉本的に言い換えれば、まず一寸(ちょっと)腹が立つとする、そしてその腹が立った関係性の空間化度を了解性の時間化度に転換するその魔法の韻律・選択の「十七文字」の定型が俳句ということになるだろう。
 漱石の分身である画工は、《芭蕉(ばしょう)という男は枕元へ馬が尿(いばり)するのさえ雅(が)な事と見立て発句(ほっく)した。余もこれから逢う人物を---百姓も、町人も、村役場の書記も、爺さんも婆さんも---悉く大自然の点景として描き出されたものと仮定し取こなして見よう》そして《全力を挙げて彼等の動作を芸術の方面から観察すること》に徹して、和歌の、五七五の上句の描写=dess-inの韻律・選択の全称を、鑑賞者が七七の下句の転換・喩の短歌のdess-ein=意図の特称に〈畳み重ね〉るのである。
 〈畳み重ね〉とは、同じ畳を何枚も重ねた状態のように、同じ意味の概念を重ねる言葉の使い方であり、吉本は『写生の物語(講談社)』のなかで、《い行き至て》《たわらはら》《い向かいて》などの動詞の名詞化としての接頭辞や、《わが名し惜しも》《こころし行けば》《間なくし思へば》《家なる妹い》などの名詞の動詞化としての接尾辞を〈畳み重ね〉の初源として「万葉集』からとりあげると同時に、《眠も寝らめやも》《木の木暗の》《声い続きい続き》《ねには泣くとも》《鼻ひ鼻ひし》などの〈畳み重ね〉を「万葉集」からとりだし、言葉の〈畳み重ね〉強調を、和歌五七五-七七の生成の本質とし、副産物として記号的な『枕詞』の生成をみいだしている。したがって短歌の聴覚性と視覚性に概念の記号を〈畳み重ね〉る「枕詞」は〈畳み重ね〉を本質とする短歌の姿映であると考えられる。

  あをによし 寧楽(なら)の京師(みやこ)は 咲く花の
             薫(にほ)ふがごとく 今盛りなり
  ひさかたの ひかりのどけき 春の日に
             しづ心なく 花の散るらむ

 前者は万葉集で《寧楽(なら)(奈良)の都は今は、咲く花の匂うように真っ盛りである》と口語訳されており、後者は古今集の紀友則の歌で《こんなに日の光がのどかに射している春の日に、なぜ桜の花は落ち着かなげに散っているのだろうか》と口語訳されており、どちらも「あおによし」と「ひさかたの」の枕詞を無意味なもののように排除して口語訳されている。しかし前者の「あおによし」は、外面「写生画」の視覚性を強い姿映の享楽に結びつけており、後者の「ひさかたの」は、内面「写生文」の聴覚性を強い姿映の享楽に結びつけている。だからこれらの口語解釈はこの価値をまったく捉えていない。
 「あをによし」は「寧楽(なら)」の姿映としての〈畳み重ね〉の枕詞であり、寧楽(なら)の京師(みやこ)は咲く花のまでの五七五の韻律・選択に、薫(にほ)ふがごとく今盛りなりの七七の転換・喩が〈畳み重ね〉られている享楽の価値があるのである。また「ひさかたの」は「光」の姿映としての〈畳み重ね〉の枕詞であり、ひかりのどけき春の日にまでの五七五の韻律・選択に、しづ心なく花の散るらむの七七の転換・喩が〈畳み重ね〉られている享楽の価値があるのである。つまり「あをによし」と「ひさかたの」の枕詞は、聴覚性と視覚性が融合した知覚が姿映化した象徴イメージの大和絵のように物質化した享楽を成している。しかし枕詞は言葉の散文化の過程で短歌から姿を消していく。そして、十七文字の余白に、見えない枕詞の『或るば所』の〈畳み重ね〉の姿映を表象する享楽の七五調とになっていく。
 そして芭蕉が、短歌の上句の五七五の韻律・選択に、見えない七七の転換・喩の〈畳み重ね〉の姿映としての「枕詞」の余白を残す描写=dess-inの全称としての原生的疎外の俳句を行為する。

  閑かさや 岩に染み入る 蝉の声

 この五七五の十七文字の韻律・選択には、その書かれた文字の余白に、見えない七七の転換・喩の、〈畳み重ね〉の姿映としての枕詞の享楽の大和絵の劇が「画中画(がちゅうが)」として潜んでいる。
 次の漱石が画工に書かせる「十七文字」も、下句の七七の意図=dess-ein=特称を、〈書=エクリチュール〉に代理させる欠如の劇の全称であり、短歌の上句だけの五七五の全称=dess-in=描写の韻律・選択の世界である。しかし、芭蕉のように見えない『或るば所』の〈畳み重ね〉の姿映としての非分離の枕詞を余白に感じさせうる享楽の十七文字には至り得ていない。見える欠如の『ば』としての分離の十七文字である。
  春の星を落として夜半(よわ)のかざしかな
  春の夜の雲に濡らすや洗い髪
  春や今宵歌つかまるる御姿
  海棠の精が出てくる月夜かな
  うた折々月下の春ををこちす
  思い切って更け行く春の独りかな
 漱石は画工=語り手に、俳句を「歌う画」ではなく、人物をあくまでも大自然の点景とみなして、かざし(簪(かんざし))、洗い髪、御姿、海棠を、十七文字でdess-in=描写として写生(デッサン)する「語りの絵」としている。しかしそれは、古典が、散文を飾る様に韻文を挿入する「画中画(がちゅうが)」の五七五-七七の韻律・選択、転換・喩の歌物語ではなく、余白のない、五七五の芭蕉を定型化した韻律・選択だけの「十七文字の散文」になっている。
 漱石が画工に作らせた十七文字の散文は、口語自由律の三十一文字の散文的短歌と同じ述語制を、近代西欧主語制に一致させた特称/純粋疎外であり、五七五の十七文字の韻律・選択には、芭蕉の韻文写生(デッサン)ように、書かれた文字の余白に、見えない七七の転換・喩の〈畳み重ね〉の姿映としての非分離の枕詞としての享楽の「画中画(がちゅうが)」の大和絵の劇が潜んでいる気配は全く感じられない散文写生(デッサン)である。


狂気の西欧油彩画のミレイと享楽の短歌水墨画の若冲★

 散文写生(デッサン)と韻文写生(デッサン)の違いは、「〈絵〉で語る」言説的シニフィアンの散文的写生(デッサン)と、「〈画〉で歌う」言表的エノンシアンの韻文的写生(デッサン)の違いである。
 漱石の『草枕』の構造は、現実の対象や情景の描写を「〈画〉で歌う」言表的エノンシアシオン=言表行為の批評を、「〈絵〉で語る」意図=dess-einで注釈する言説的シニフィアンの行為の散文的写生(デッサン)であり、追憶や象徴物や夢を「〈絵〉で語る」言説的シニフィアン=意味作用の注釈を、「〈画〉で歌う」描写=dess-inで批評する言表的エノンシアシオン=言表行為の韻文的写生(デッサン)を展開することで、各章を、連歌として繋ぐ写生行為の結果として物語となる構成となっている。つまり漱石は、対象や情景の〈現実〉を〈絵〉として画工に「写生文」させ、追憶、象徴物、夢の〈現在〉を〈画中画〉として画工に「写生画」させることで、短歌的な定型の物語的気分を劇の非定型に解体するのである。
 昨夜八時頃、那古井の宿に着いた画工は、【家の具合庭の作りは無論のこと、東西の区別さえ】わからないまま、小さな六畳の座敷にとうされた。不思議なことに、宿の取次も、晩飯(ばんめし)の給餌も、湯壺(ゆつぼ)の案内も悉(ことごと)く一人で弁じている小女(こおんな)がきて床を延べようかという。
 【田舎染(いなかじ)みてもおらぬ。赤い帯を色気なく結んで、古風な紙燭(しそく)をつけて、廊下の様な、梯子段(はしごだん)の様な所をぐるぐる廻らされた時、同じ帯の同じ紙燭で、同じ廊下とも階段ともつかぬ所を、何度も降りて、湯壺へ連れて行かれた時は、既に自分ながら、カンヴァスの中を往来している様な気がした》そして《出て行ったが、その足音が、例の曲がりくねった廊下を、次第に下の方へ遠ざかった時に、あとがひっそり、人の気がしないのが気になった。】(草枕30~31p)
 という様に、漱石は画工に、宿の小女の〈現実〉の対象や情景の描写の韻文写生の「〈画〉で歌う」描写=dess-inの言表的エノンシアシオン=言表行為の批評を、〈現在〉の注釈として「〈絵〉で語る」意図=dess-einの言説的シニフィアンで注釈する散文的写生(デッサン)として語らせている。
 そして、そこに《昔し房総の館山(たてやま)から向こうへ突き抜けて、上総から銚子まで浜伝いに歩いた》その時にある晩の、《今では土地の名も宿の名も、まるで忘れてしまった》《ある所というより外に言い様がない》その『或るば所』を姿映としての非分離な枕詞として、今の小女の宿の経験に〈畳み重ね〉て『写生画」を展開する。つまり画工は、〈現前〉の追憶や象徴物や夢を「〈絵〉で語る」言説的シニフィアン=意味作用の注釈を、〈現在〉の批評として「〈画〉で歌う」言表的エノンシアシオン=言表行為の韻文的写生(デッサン)を展開する。そこではdess-ein=意図の散文写生の〈絵〉に、dess-in=描写の韻文写生の〈画〉が、〈畳み重ね〉となって展開される。
 【棟の高い大きな家に女がたった二人居た。余がとめるかと聞いたとき、年を取った方ははいと云って、若い方が此方へと案内をするから、ついて行くと、荒れ果てた、広い間をいくつも通り越して一番奥の、中二階へ案内をした】【椽板は既に朽ちかかっている。来年は筍が椽を突き抜いて座敷のなかは竹だらけになろうと云ったら、若い女は何も云わずににやにやと笑って、出て行った】と〈現在〉の「或るば所」を姿映としての非分離な見えない枕詞とする〈現前〉に〈畳み重ね〉される宿の経験の記憶を語る。

 ◎その晩は例に竹が、枕元(まくらもと)で婆娑(ばさ)ついて、寝(ね)られない。障子を開けたら、庭一面の草原(くさはら)で、夏の夜の月明(あきら)かなるに、眼(め)を走らせると、垣(かき)も塀(へい)もあらばこそ、まともに大きな草山に続いている。草山の向こうはすぐ大海原(おおうなばら)でどんどんと大きな濤(なみ)が人の世を威嚇(おどか)しに来る。余はとうという夜(よ)の明けるまで一睡もせずに、怪し気(げ)な蚊帳(かや)のうちに辛抱(しんぼう)しながら、まるで草双紙(くさぞうし)にでもありそうな事だと考えた。
 その後(ご)旅を色々したが・こんな気持になった事は、今夜のこの那古井へ宿(とま)るまではかつて無かった。
 仰向(あおむけ)に寝ながら、偶然眼を開(あ)けて見ると欄間(らんま)に、朱塗(しゅぬ)りの縁(ぶち)をとった額がかかっている。文字は寝ながらも竹影(ちくえい)払階(かいをはらって)塵不動(ちりうごかず)と明らかに読まれる。大徹(だいてつ)という落款(らっかん)も慥(たし)かに見える。余は書に於(おい)ては皆無(かいむ)鑒識(かんしき)のない男だが、平生(へいぜい)から、黄檗(おうばく)の高泉(こうせん)和尚(おしょう)の筆致を愛している。隠元(いんげん)も即非(そくひ)も木庵(もくあん)もそれぞれ面白味(おもしろみ)はあるが、高泉の字が一番蒼勁(そうけい)でしかも雅馴(がじゅん)である。今この七字を見ると、筆にあたりから手の運び具合、どうしても高泉としか思われない。しかし現に大徹とあるからには別人だろう。ことによると黄檗に大徹という坊主(ぼうず)が居たのかも知れぬ。それにしても紙の色が非常に新しい。どうしても昨今のものとしか受け取れない。
 横を向く。床(とこ)にかかっている若冲(じゃくちゅう)の鶴(つる)の図が目につく。これは商売柄だけに、部屋に這入った時、既に逸品と認めた。若冲の図は大抵精緻(せいち)な色彩ものが多いが、この鶴は世間に気兼(きがね)ねなしの一筆(ひとふで)がきで、一本足ですらりとたった上に、卵形(たまごなり)の胴がふわっと乗(のっ)かっている様子は、甚(はなは)だ吾意(わがい)を得て、飄逸(ひょういつ)の趣は、長い嘴(はし)のさきまで籠(こも)っている。床の隣には違い棚(だな)を略して、普通の戸棚につづく。戸棚の中には何があるか分からない。すやすやと寝入(ねい)る。夢に。
 長良(ながら)の乙女が振袖(ふりそで)を着て、青馬(あお)に乗って、峠を越すと、いきなり、ささだ男と、ささべ男が飛び出して両方から引っ張る。女が急にオフェリヤになって、柳の枝へ上(のぼ)って、河の中を流れながら、うつくしい声で歌をうたう。救ってやろうと思って、長い竿(さお)を持って、向島(むこうじま)を追懸(おっか)けて行く。女は苦しい様子もなく、笑いながら、うたいながら、行末(ゆくえ)も知らず流れ下る。余は竿をかついで、おおいおおいと呼ぶ。
 そこで眼が醒めた。腋の下から汗が出ている。
 ◎同32~33p 

 まず枕元で娑婆つく竹に寝られないその晩とは、「若い女は何も云わずににやにやと笑って、出て行った」その『或るば所』を姿映としての〈現前〉の非分離な枕詞として、那古井の宿の〈現在〉に〈畳み重ね〉られた「晩」の出来事である。寝付かれず障子を開けて、夏の夜の月明かなるに、眼を走らせると、「庭一面の草原で」「大きな草山に続いている。」
 画工は、〈現前〉の「大きな草山に続いている庭一面の草原」を「〈絵〉で語る」言説的シニフィアン=意味作用の注釈とした上で、〈現在〉の批評として「〈画〉で歌う」言表的エノンシアシオン=言表行為の韻文的写生(デッサン)を展開する。そこでは《草山の向こうはすぐ大海原でどんどんと大きな濤が人の世を威嚇しに来る》と、dess-ein=意図の散文写生の〈絵〉に、dess-in=描写の韻文写生の〈画〉が、〈畳み重ね〉となり「大和絵のような非定型の写生文」が《まるで草双紙にでもありそうな事だ》と短歌的精神の物語に収束されている。
 次に作者=漱石は、語り手=画工が《仰向けに寝ながら、偶然眼を開け》た時、欄間に、かかっている朱塗りの縁をとった額が眼に入る終止形な絵音律の形容詞表象から入っていく。
 そこには寝ながらも明らかに読める《竹影(ちくえい)払階(かいをはらって)塵不動(ちりうごかず)》の描く画楽如の動詞表象の「文字」が描かれてある。そして大徹の落款を眼にしながら書の思想に思いを巡らす。
 江戸期に始まった禅宗の黄檗派の帰化僧隠元隆琦(いんげんりゅうき)(1594-1673)、隠元に招かれて来朝した即非如一(ひそくじょいち)(1616-71)、隠元の高弟で木(もく)庵(あん)性瑫(しょうとう)(1611-84)の、黄檗三筆はそれぞれに面白味のある書ではあるが、明から来日した黄檗派の高僧高泉性(こうせんしょうとん)潡(こうせんしょうとん)和尚(1633-95)の蒼勁で雅馴な筆致を愛している画工は、「今この七文字を見ると、筆のあたりから、手の運び具合としての「ことば=it」を名ざす刻彫戒の提題表象からみて、どうしても高泉」の書としてしか思われないと感じる。しかし「現に大徹とあるから別人」であり「黄檗に大徹という坊主がいたのかもしれない」、それにしても「紙の色が非常に新しい」ことから最近の偽作かもしれないと書の思想は鑑定に変わる。
 次の若冲の絵に眼が止まるのだが、それを考察する前に、その次の「夢」の考察から先に進めよう。
 白馬に乗って峠を越す振袖を着た長良の乙女にはじまる夢である。夢の〈現前〉で《ささだ男と、ささべ男が飛び出して両方から引っ張る》〈現在〉が、恰もラファエロ前派の画家ジョン・エヴァレット・ミレイの絵画『オフェリヤ(1852)』のように、『女が急にオフェリヤになって、柳の枝へ上って、河の中を流れながら、うつくしい声で歌をうたう』〈絵で語る〉言説的シニフィアン=意味作用の注釈として展開される。その〈現在〉の批評として〈画で歌う〉言表的エノンシアシオン=言表行為の韻文的写生(デッサン)として展開する。そこではdess-ein=意図の散文写生の〈絵〉に、dess-in=描写の韻文写生の〈画〉が、〈畳み重ね〉の享楽として展開している。河に流されるオフェリヤの夢の「画中画」に入り込んでしまった画工は「苦しい様子もなく、笑いながら、うたいながら、行末も知らず流れ下る」夢をみる。そして画工は脇の下に汗をかいて目を覚ます。
 明治三十三年(1900)から三年間、漱石がロンドンに留学したイギリスの時代は、1837年に始まったヴィクトリア女王の治世が1901年の女王の死と共に閉じる前年であり、ヴィクトリア朝と共に隆盛した英国ブルジョワジーが黄金期を迎えた時であった。それはまた英国美術にとっても黄金期であり爛熟期であった。ヴィクトリア女王が夫アルバート (ザクセン=コーブルク=ゴータ公子)とともに、救済すべき英国の芸術保護育成に努めた時代だからである。
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sakura takwara sagasi 2017
 しかし《夫婦が、正当にしてかつ子孫生産係であるものとして君臨する》《ヴィクトリア朝ブルジョワジー》は、《性[性器とその機能、性本能]の周りで》《口を閉ざす》と語るミシェル・フーコーは、ヴィクトリアとアルバートの芸術の保護育成は、有用的の性の論理が排除した異常者から生まれた「社会思想」であるという。そして《それは、自分こそモデルであると主張し、規範を尊重させ、真理を独占し、語る権利を保有するが、それは秘密の原則を自分のために取っておくことによってだ。社会空間においても、各家庭の内部にあっても、承認された性現象の唯一の場は、有用かつ生産的なもの、すなわち両親の寝室である。それ以外は、もはや消え去るほかはない。礼儀にかなった態度が身体を巧みに避け、上品な言葉が言説を洗って白くする。その時、性的に不毛な人間が自分のことにこだわったり、自分のことを人々に見せようものなら、彼は異常者とされてしまう。異常者としての身分を定められ、それに見合った制裁を受けなければならなくなるのだ(M・フーコー『性の歴史1知の意志』新潮社10p)》といっている。
 ヴィクトリア朝において、有用かつ生産的なものとして承認された〈性〉現象に疎外された、性的に不毛な人間は、定められる異常者の身分の制裁を超えて、自分のことにこだわる個人化権力の「美の社会思想」を主体化としてを引き受ける。真・善・美の純粋理性の主語制を神とするカント主義社会思想の主体化を、である。
 従兄弟同士で結婚した富裕な葡萄酒商人の一人っ子としてロンドンに生まれたジョン・ラスキンは、有用かつ生産的なものとして承認された〈性〉現象に疎外され、性的に不毛な人間の異常者の規定を超えて、自分のことにこだわる個人化権力の真-善-美の純粋理性の主語制を神とするカントの「美の社会思想」にのめり込んでいくことになる。そして画家ターナーとの交流から芸術を擁護するエッセイを執筆し、批評活動へ入る。
 「ラファエロ以前兄弟団=ラファエル前派」という絵画のグループのジョン・エヴァレット・ミレイ(1829-1896)と知り合う。画工の夢で《女が急にオフェリヤになって、柳の枝へ上って、河の中を流れながら、うつくしい声で歌をうたう》絵画『オフェリヤ』の作者ミレイである。オフェリアは、シェークスピアの戯曲『ハムレット』で、王妃ガートルードとならんで登場する二人のハムレットの妃候補の一人デンマークの若い貴婦人である。絵はそのオフェリアの事故死か自殺かの水死のシーンを描いたものである。
 「ラファエル」とはイタリア・ルネサンス古典形式の完成者ラファエロ・サンティのことであり、その後のアカデミズムにおいて規範とされたラファエロの絵画のことである。「ラファエロ以前」という言葉には、十九世紀イギリス・アカデミーにおける古典偏重の美術教育に異を唱える意味があり、彼らはラファエロ以前の芸術、すなわち「中世」やヴェネチア派など初期ルネサンスの芸術を自らの規範とした。
 そしてルネサンス以前の中世芸術を社会規範とした『近代画家論』を表した後、ラスキンは、中世ゴシック様式を賛美する『建築の七灯』(The Seven Lamps of Architecture)を書いた。真-善-美の純粋理性の主語制を神とする個人化権力のカントの社会思想で書かれたそれは、次のようなものである。
①犠牲の灯=建築は神に対する人間と愛と服従を目に見える形 で示した捧げものでなくてはならない。
②真実の灯=素材も構造も誠実でなければならない。
③力の灯=神から与えられた力を行使し、自然の崇高さと同調 するような大きさがなくてはならない。
④美の灯=神が創られた完璧な美である自然に倣った装飾をし なくてはならない。
⑤生命の灯=人間の手で造られた命の建築でなければならない。
⑥記憶の灯=時代に評価され、歴史に刻まれるものでなくては ならない。
⑦服従の灯=国家(英国)や文化、信仰を体現するものでなく てはならない。
 このカント的な真・善・美の純粋理性の主語制の《上品》を個人化権力の神とするジョン・ラスキンの真理・知識・権力は、サド的に個人化された「芸術社会思想」に変容し、有用かつ生産的な〈性〉現象に疎外されたエリザベスや夫アルバートの精神を始め、ゴシック・リヴァイヴァル建築家やアートアンドクラフトのウィリアム・モリス他すべての芸術家の無意識に忍び込み、多くの潜在的異常者=自由者に勇気を与えた。
 数学者でもあり、白兎を追いかけて不思議の国に迷い込む幼い少女アリスが、しゃべる動物や動くトランプなどさまざまなキャラクターたちと出会いながらその世界を冒険する『不思議の国のアリス(1865)』を書いたルイス・キャロル、本名チャールズ・ラトウィッジ・ドジソン(1832-1898)は、1857年にラファエル前派の社交サークルに入会し、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティと家族ぐるみの親密な交際を行い、その後ラスキンとも知り合い、ジョン・エヴァレット・ミレイとも知り合っている。 
1mirejyaku
mirey / jyakutu
 しかし漱石には、ミレイの絵画『オフェリア(作品1)』は真・善・美の純粋理性の主語制の《上品》を神とする真理・知・権力の異常者=西欧の狂気を象徴しているようにみえた。
 漱石の無意識は、画工の夢で、河を歌いながら流れるオフェリアを「救ってやろうと思って、長い竿を持って、向島を追懸けて行く」「余は竿をかついで、おおいおおいと呼ぶ」のである。そして画工は脇の下の汗をかいて目を覚ます。
 『オフェリア』の夢に入る前、画工は、那古井の宿で目覚めた朝、欄間の額に『竹影(ちくえい)払階(かいをはらって)塵不動(ちりうごかず)』と読まれる《塵ひとつ動かない竹の影が世界の糸口となっている》漢詩の〈書〉を〈絵〉として眺めている。そして横を向く・・・。
 床(とこ)にかかっている若冲(じゃくちゅう)の『鶴(つる)図(作品2)』が目にとまる。
 明治三〇年の暮れ漱石が訪れた熊本の温泉地那古井(なこい)の宿で、画工にみせた床の間の若冲の鶴図を探してみた。若冲が描いている沢山の鶴図は殆ど博物図的な細密色彩画である。中からそれらしき伊藤若冲の水墨画の『鶴図(作品2)』を見つけた。
 世間に気兼(きがね)ねなしの一筆(ひとふで)がきで、一本足ですらりとたった上に、卵形(たまごなり)の胴がふわっと乗(のっ)かっている鶴の様子は、吾意(わがい)を得て、飄逸(ひょういつ)の趣が、長い嘴(はし)のさきまで籠(こも)っている、という言葉にぴったりの若冲の鶴図である。
 この若冲の鶴図は、まさに禅画の《世界の糸口を成す》一筆(ひとふで)がきの『円相図(図X)』の視角六七、五度の終止形な絵音律の形容詞表象と、視角二二、五度の描く画楽如の動詞表象の五七五の上句の韻律と選択を中心に、視角四五度の名ざす刻彫戒の七七の下句の転換と喩の提題表象を重ねた短歌の「絵画としての大和絵」の享楽を論理的に図解している。
 つまり《ふわっと乗(のっ)かっている》《卵形(たまごなり)の胴》は、円窓と書いて己の心をうつす窓の意味もある禅画の、視角六七、五度の終止形な絵音律の形容詞表象の『円相図(図X)』を表しており、視角六七、五度の終止形な絵音律の形容詞表象の『鶴図』全図a と、『鶴図』部分cの視角二二、五度の描く画楽如の動詞表象で構成する韻律と選択の五七五の見方に、『鶴図』部分bの視角の視角四五度の名ざす刻彫戒の提題表象で構成する転換と喩の七七の見方が示されているということである。つまり「耳」の絵音律と「目」の画楽如と「手」の刻彫戒の三つのまなざし(視角)を示す暗示が鶴図に組み込まれているのである。
 ミレイ(1829-1896)の『オフェリア』は、印象派が光の三原色の〈現実〉を色彩の三原色の〈現前〉に置き換えて、絵画の光の〈現在〉を表現したように、赤、黄、青、橙、紫、緑の原色を小さな点描的筆触で表現した分離の西欧「象徴主義」の「近代絵画」の出発点である。
 若冲(1716-1800)の『鶴図』は、選択と韻律の五七五の俳句的な写生が、赤、黄、青、橙、紫、緑の原色刷りの「浮世絵」版画として、歌麿、北斎、広重らによって成立し大きく隆盛した時代に、俳句的な五七五の選択と韻律に、見えない短歌的な転換と喩の七七を〈畳み重ね〉る短歌的な構造による非分離の和風「象徴主義」大和絵の「和風絵画」の出発点である。
 言い換えれば、ミレイの『オフェリア』は、二次元三次元四次元に連続したユークリッド幾何学の空間の主語制の倫理の絵画(タブロー)であるが、若冲の『鶴図』は、二次元から四次元に飛躍して通じるトポロジー幾何学において、絵音律と画楽如と刻彫戒が相反的に規制する立体の述語制の享楽の画中画(がちゅうが)である。
 

円相と韻文写生★

 ここでわたしたち美術家は、松尾芭蕉の「無」を前提に、発語という規制が「有の〈面〉」を享楽として生成する、禅画的な構造を持つ一句を、再び思い浮かべる。
    閑かさや 岩にしみ入る 蝉の声
 この五七五の三句十七文字が「円窓」とも呼ばれて己の心を写す窓を構成する「禅画=円相(図X)」の享楽の構造をなしているからである。しかし三句を加算減算する〈点〉が二次元から三次元にまたは乗算除算する〈量〉に繋がる散文写生の三次元から四次元に連続する《ことばのもの》ユークリッド幾何学の空間の倫理ではない。〈線〉の二次元の図(figure)が「有の〈面〉」の四次元の地(ground)に飛躍して通じる韻文写生の《もののことば》の「無」のトポロジー幾何学の立体の享楽である。
 五七五の上句の韻律と選択に七七の下句の転換や喩を重ねる技巧的な「短歌」の七五調を繰り返す長歌を基本に《形而上学に開く》五七五七七の「短歌」の三十一文字に凝縮した短編小説を理念とする森鴎外「小説」の悲劇の文体に対して、夏目漱石の十首に満たない五七五七七の「短歌」は、《生活の地面に開く》『吾輩は猫である』『坊ちゃん』『草枕』など、江戸戯作、狂歌、俳諧、落語、英文学が混じる諧謔的な小説につながっていると吉本はいい、鴎外の短歌、漱石の俳句といわれる印象を頷けるものであると言う。つまり漱石は、下の句の七七の転換や喩を散文全体に分散させて、諧謔的な韻律と選択の「五七五」の「俳句」の十七文字を基盤とした「写生的文体」を批評的小説の理念としているというのである。(吉本隆明『写生の物語』講談社121~130p参照)
 わたしたち美術家は、短歌下句の七七の転換や喩を散文世界に広がる物語的な要素、短歌上句の五七五を韻律と選択を韻文的は写生的な要素と理解することで、明治新体詩以降の五七五七七の《形而上学に開く》短歌の物語的述語面で享楽する森鴎外と、五七五の《生活の地面に開く》俳句の劇的述語面で享楽する夏目漱石の違いが分かると同時に、江戸劇的述語帯の物語的述語面で五七五七七=三十一文字の《形而上学に開く》短歌の韻律と選択と転換と喩の探究という「国学」の知的享楽に対して、劇的述語面で五七五=十七文字の《生活の地面に開く》俳句の韻律と選択に純粋化した写生的な芸術的享楽を展開する松尾芭蕉が存在したということを理解することができる。
 そこで言語の転換と喩という対象的な作業を「写生文」のメタ作業として俳句の行為から排除するなら、「写生画」としての俳句行為そのものを、言語の選択と韻律という対象化の作業と同一化することができると考える。したがって「写生画」の行為としての俳句は、韻律と選択を「心」で一つにした「円相」という禅画と同一性の行為であるということが分かる。
2ensohaiku
enso / haiku
 したがって円相の中を潰して「点」(図Y)とすれば、地(ground)の白の上に黒の図(figure)が来るか地(ground)の黒の上に白の図(figure)が来るかの〈分かる〉誤認の〈知る〉再認の二分法の〈知性〉の三次元の《もののことば》が四次元に拡張され韻律、選択、転換、喩が散漫に広がる散文世界の構造として了解される。しかし中の空白を活かして、「線」の二次元の図(figure)とすれば(図Z)、「有の〈面〉」の四次元の地(ground)に通じる「無」の《信念》の選択と韻律に引き絞り上げられた韻文世界の享楽が見えてくる。
 そしてここに、「閑かさや」を終止形な絵音律、「岩にしみ入る」を描く画楽如、「蝉の声」名ざす刻彫戒として、円相にあてはめれば、五七五の俳句と写生の理念的な同型性がみえる。
 つまり「閑かさや」という視角六七、五度の終止形な絵音律の形容詞表象の規制にはじまり、そこに「岩にしみ入る」という視覚二二、五度の描く画楽如の動詞表象の規制の没骨(もっこつ)(筆の線法)の墨の円相(図X2)が描かれ、その円の空白に、「蝉の声」という視覚四五度の名ざす刻彫戒の提題表象の規制が示されて、禅画の円相構造の上で「大和絵としての俳句」の場所が発生し生成されるということである。「大和絵としての俳句」の構造は、中を内空白の「有の〈面〉C」の刻彫戒とし、外を異なる外空白の「有の〈面〉A」の絵音律とする「線A」(図X2)の画楽如であり、その「線」に「無」の「図」としての二次元の特権を与える、絵音律と画楽如と刻彫戒の三つの相反的な規制関係が、四次元のトポロジー幾何学の《もののことば》の《享楽》を可能にするということである。対して中を潰した「点」(図Y)の場合は、黒の上の白または白の上の黒の地(ground)と図(figure)の要素の違いで、〈分かる〉二次元または三次元の誤認としての〈知る〉再認の〈知性〉の三次元または四次元のユークリッド幾何学の構造における合理的な二分法の構成に囚われることになる。一方「線」の円(図Z)は「点」の円から解放された二次元から四次元に通じる四次元の享楽の場所である。
 したがって「俳句」とは、終止形な絵音律→描く画楽如→名ざす画楽如→名ざす刻彫戒が規制しあう相反的な、なくす順序で、〈分かる〉三次元の誤認と〈知る〉再認の〈知性〉の四次元のユークリッド幾何学の機能を超えて、二次元から四次元へ通じる享楽のトポロジー幾何学の『大和絵としての行為』である。つまり、「画」という描く画楽如の動詞表象の散文写生の〈分かる〉誤認の〈知る〉再認の〈知性〉の行為を、『美』に生成するには、規範的な名ざす刻彫戒の提題表象を、規制する終止形な絵音律の形容詞表象の韻文写生の個人幻想に対する自己幻想の「絵」の享楽に従うべきことが示されている。
 江戸劇的述語帯の物語的述語面で、和歌形式が「五七五七七のヘテロ的な音数律に集約されてきた根拠は、片歌形式(五・五・七・四・四・七あるいはそのヴァリエーション)での複数の人のあいだの掛け合いが、ひとりの作者によって集約されたため生まれた形式だと言うことが明らかになり、三十一文字の《形而上学に開く》短歌の韻律と選択と転換と喩の探究という「国学」の知的享楽が隆盛する劇的述語面で、五七五=十七文字の《生活の地面に開く》俳句の韻律と選択に純粋化した写生的な芸術的享楽を展開する松尾芭蕉が登場した時、俳句の五七五の韻律と選択に呼応する、歌麿、北斎、広重らの散文写生(デッサン)の「浮世絵」が隆盛していくのである。
 浮世絵が席巻する時代、伊藤若冲は『鶴図』に見られるように、三十一文字の《形而上学に開く》短歌の韻律と選択と転換と喩の探究という「国学」の知的享楽に呼応して、短歌的な韻文写生(デッサン)の「和風絵画」を創出していくのである。 
2017mana-19-03-4
sakura takwara sagasi 2017

水性画と料紙、油彩画と支持体★

 画工は宿に着く。【「おい」と声をかけたが返事がない】と、五-五-六の調子で、また述語制の非自己の画中画(がちゅうが)のランガージュの非分離の場所が「画を歌い」はじめる。

 ◎軒下から奥を覗(のぞ)くと煤(すす)けた障子が立て切ってある。向こう側は見えない。五六足の草鞋(わらじ)が淋(さび)しそうに庇(ひさし)から吊るされて、屈託気(くったくげ)にふらりふらりと揺れる。下に駄菓子(だがし)の箱が三つばかり並んで、そばの五厘銭と文久銭(ぶんきゅうせん)が散らばっている。
 「おい」と又声をかける。土間(どま)の隅(すみ)に片寄である臼(うす)の上に、ふくれていた鶏が、驚いて眼(め)をさます。ククク、クククと騒ぎ出す。敷居(しきい)の外に土竃(どべつっい)が、今しがたの雨に濡(ぬ)れて、半分程度色が変わっている上に、真黒な茶釜(ちゃがま)がかけてあるが、土の茶釜か、銀の茶釜かわかわからない。幸い下は焚(た)きつけてある。
 返事がないから、無断でずっと這入(はい)って、床几(しょうぎ)の上へ腰を卸(おろ)した。鶏は羽搏(はばた)きをして臼から飛び下りる。今度は畳の上へあがった。障子をしめてなければ奥まで馳(か)けぬける気かも知れない。雄が太い声でこけっこっこと云うと、雌が細い声でけけっこっこと云う。まるで余(よ)が狐(きつね)か狗(いぬ)の様にみえているらしい。床几の上には一升枡(ます)程な煙草盆(たばこぼん)が閑静に控えて、中にはとぐろを捲(ま)いた線香が、日の移るのを知らぬ顔で、頗(すこぶ)る悠長(ゆうちょう)に燻(いぶ)っている。雨は次第に収まる。
 ◎同17~18p

 《向こう側は見えない。五六足の草鞋が寂しそうに庇に吊るされて、屈託気にふらりふらりと揺れる。下に駄菓子の箱が三つばかり並んで、そばの五厘銭が散らばっている》と無意識の七五調のリズムの〈模展のことば=S〉を名ざす刻彫戒の韻律/選択の提題表象を包む、《鶏は羽搏きをして臼から飛び下りる。今度は畳の上へあがった》それを描く画楽如の動詞表象の「円相」の二次元の〈線〉が、《ククク、クククと騒ぎ出す》終止形な絵音律の形容詞表象の四次元の〈有の面〉に飛躍して、通じるトポロジー幾何学の「韻文写生」をなして画工は「画を歌って」いるのである。
 この韻律と選択の五七五の《生活地面に開く》俳句的「浮世絵」を超えて、《雄が太い声でこけっこっこと云うと、雌が細い声でけけっこっこと云う》という七七の転換と喩を〈畳み重ね〉にして、視覚を《形而上学に開いて》短歌的に拡張した「和風絵画」を成立させているのが伊藤若冲の水墨画『鶏図(作品3)』である。
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asaityu / jyakutyu
 しかし、若冲のように《形而上学に開く》短歌的世界を、明治の新世界においては過ぎ去った古風でしかないと自覚する画工は、どこまでも視覚を《生活地面に開く》俳句的視線に止め、浅井忠が描いた禁欲的な五七五の韻律と選択の俳句的油彩画の『にわとり(作品4)』の写生散文の場所に留まるべきとする。
 それは若冲のような華麗な動き(ムーブマント)の美ではなく、静止した形態空間の美であった。画工は静止した形態空間の美を、活人画(かつじんが)としての宝生の能舞台にみいだす。

 ◎返事がないのに床几に腰をかけて、いつまでも待ってるのも少し二十世紀とは受け取れない。ここらが非人情で面白(おもしろ)い。その上出て来た婆さんの顔が気に入った。二三年前(まえ)宝生(ほうしょう)の舞台で高砂(たかさご)を見た事がある。その時これはうつくしい活人画(かつじんが)だと思った。箒(ほうき)を担(勝つ)いだ爺(じい)さんが橋懸(はしがか)りを五、六歩歩いて、そろりとう後向(うしろむき)になって、婆さんと向きに合う。その向い合うた姿が今でも眼につく。余の席からは婆さんの顔が殆(ほと)んど真むき見えたから、ああうつくしいと思った。その表情はぴしゃりと心のカメラへ焼き付いてしまった。茶店の婆さんの顔はこの写真に血を通わした程似ている。
 ◎同19p

 装備した背景の前で、ポーズをとって画中の人物に見せかける活人画(かつじんが)tableau vivantとして、〈現前〉の光景を「能舞台」の様に捉える画工(えかき)=余(よ)は、見えるものを写生文する十七文字の選択が「絵の語り」であり、見えるものを写生画する十七文字の韻律が「画の歌」であると感じている。だから、ぴしゃりと「心のカメラ」へ焼き付け、世界を凍りつかせた浅井忠の『にわとり』やtableau vivant活人画としての『収穫(作品5)』の韻律と選択の述語意志は、画工がめざす五七五の散文的な俳句的洋画を成立させている。
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asaityu / syukaku
 しかし油彩画は顔料にリンシードオイルなどの固着力・塗膜強度に優れた乾性油を混ぜて板や画布の支持体の上に被膜をつくるように描くものであることから、水を含んだ柔らかい筆先に水性顔料や染料を非分離に付けて、恰も『紙』が描く筆の先端を誘導し顔料や染料が動きのなかで『紙料』と非分離に定着される水墨画や水彩画の自然様態の世界とは異なって、油性顔料と支持体が分離した硬い筆が運ぶ人工的な分離の痕跡が動きを失いながら固まり続ける物質世界である。
 浅井忠の『吉野風景』、『鬼ヶ島』『にわとり(作品4)』や『収穫(作品5)』は、皆ぴしゃりと「心のカメラ」へ焼き付けた世界である。しかし、水性画の『吉野風景』や『鬼ヶ島』は、恰も『紙』が描く筆の先端を誘導し顔料や染料が動きのなかで『紙料』と非分離に定着される自然様態となって生き続けているのに対して、『にわとり』や『収穫』は、分離の板や画布の支持体の上で油性顔料物質と分離した硬い筆が運ぶ人工的な分離の痕跡が動きを失いながら固まり続け死んでいく物質世界になっている。浅井忠は『紙料』の繊維の中に顔料や染料が非分離な自然状態として生き続けることを水性画では上手に活かして論理の享楽となし得ているのに対して、油彩画では板や画布の支持体と油性顔料が分離した筆触が被膜として固まることで、特に『収穫』は分離の「画外画(ががいが)」の記号物質の倫理の狂気に陥ってしまっている。しかし『にわとり』は、油彩絵具と板=支持体との分離を、白い鶏の胴体の視角四五度の名ざす刻彫戒の色面の図と、茶灰色の視角六七、五度の終止形な絵音律の地面の色面に二分しながらその境界線を「円相の線」を視角二二、五度の描く画楽如とすることで、若冲の『鶴(つる)図』のように抽象化し、二次元の韻律と選択の《線》が、四次元の転換と喩の〈有の面〉に飛躍する〈畳み重ね〉のトポロジー幾何学の立体を成す論理の享楽の可能性において、二次元、三次元、四次元のユークリッド幾何学の空間として倫理の狂気を死んでいく分離の被膜物質と、ズレて静止する「画中画(がちゅうが)」の「生の自然」が表象されているということである。しかし浅井忠のように南宋画の定型から非定型の洋画をめざす漱石らしき画工は、若冲の『鶏図(けいず)』のように、転換と喩の〈有の面〉に飛躍する〈畳み重ね〉を、韻律と選択の《線》と同次元で表象してしまうことは、『鶏(けい)』が『にわとり』に散文化された視覚の現在では非機能な「枕詞」としての装飾的な失敗にみえた。


カメラオブスキュラ・パノプティコン・ソサエティ★

 西欧の油彩画の技術は、三次元空間の対象物を機械製図法(図K)によって、正面図、平面図、側面図に合理的に分解して「図面化」し、一つの個体に分離=成形する、工業生産複製の「大量生産」の近代化の論理に直接むすびついている。
 機械製図法(図K)には、視角九〇度の終止形な音楽素から監視する「パノプティコン」と、視角六七、五度の描く絵画素から凝視する「カメラオブスキュラ」に、もう一つの視角四五度の名ざす彫刻素で批判する「ソサイエティ」の三つの西欧絵画のまなざしを一つにする「個人の主体化」を強制または矯正としての西欧近代化の基礎をなすものがある。
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 「カメラオブスキュラ」はまさに世界を凝視する「目のカメラ」であり、「パノプティコン」は世界を凝視する自分を監視する「心のカメラ」であり、「ソサイエティ」は見ることを純粋理性批判する「言葉のカメラ」である。つまり西欧は、凝視する「目のカメラ」と、監視する「心のカメラ」と、批判する「言葉のカメラ」の三つの倫理の狂気を二次元、三次元、四次元のユークリッド幾何学の空間支配につなげる『建築の七灯(The Seven Lamps of Architecture)』のラスキンのような「主体化の主体」を近代的な個人として創りだしたのである。
 西欧において目の「ゑ」は耳の「こゑ」に制御され目の「ゑ」は手の「もの」に制御され手の「もの」は耳の「こゑ」に制御される。そこで生まれた「もののことば」の「目のカメラ」の絵画と「ことばのもの」の「心のカメラ」の言語のあいだで批評と註釈の「言葉のカメラ」の社会の活動が生まれた。
 「目のカメラ」は世界を機械製図法的な一次元二次元三次元のユークリッド幾何学の水平軸と垂直軸の部屋とする『カメラオブスキュラ』の射影を、レオナルド・ダ・ヴィンチらが「遠近法の絵画」とする主体化の主体の出現である。
 監視人を決して見ることができない代わりに見られている恐怖から逃れられない囚人が、自らを監視する施設をジェレミ・ベンサムは『一望監視施設(パノプティコン)』を「心のカメラ」として考案した。つまり「心のカメラ」は一次元二次元三次元のユークリッド幾何学の個人が四次元のユークリッド幾何学で自分を自分が監視する『パノプティコン』の主体化の作者の出現である。
 「言葉のカメラ」については、イマヌエル・カントは、「概念」を構成する「感性」を任意な「悟性」の誤りに基づくものとして、世界をユークリッド幾何学における質、量、関係、様相の一次元二次元三次元四次元のカテゴリとして対象化し「純粋理性批判」することを宣言し、そこに主体化の作家を出現させる。そして主体化の作家は、『カメラオブスキュラ』の「目のカメラ」の主体化の主体と、『パノプティコン』の「心のカメラ」の主体化の作者が、「純粋理性批判」に基づく「言葉のカメラ」の『ソサイエティ』を、倫理の狂気としての近代国家として創り出す「物語」を構想することになる。
 したがってラフェエル前派のジョン・エヴァレット・ミレイ油彩画『オフェリア』は、機械製図法(図K)の「第一角」に「「苦しい様子もなく、笑いながら、うたいながら、行末も知らず流れ下る」オフェリアを設定し、一次元二次元三次元のユークリッド幾何学の水平軸と垂直軸の「部屋」のなかの『カメラオブスキュラ』を凝視する「目のカメラ」の主体化の主体から描き始められている。その時、外部の支持体のカンヴァスと、分離して筆で塗られる油彩顔料を、ミレイは印象派の画家たちと同じように、光の三原色に一致するように色彩の三原色を中心に小さな原色の点描法で、自分の三次元のユークリッド幾何学の視覚を、自分の四次元のユークリッド幾何学の視線が監視する『パノプティコン』の主体化の作者の「心のカメラ」によって、支持体としてのカンバスの肌理よりも油彩顔料を小さな色紋に微細化することで分離が解消されている。
 しかし『カメラオズスキュラ』の「目のカメラ」で発生し、『パノプティコン』の「心のカメラ」で生成される「死のエロス」の《感性》を表象するミレイの絵画『オフェリア』は、任意な「悟性」の誤りに基づくユークリッド幾何学における一次元二次元三次元四次元の質、量、関係、様相のカテゴリに基づくカントの「実践理性批判」の真・善・美の「言葉のカメラ」による『ソサイエティ』の「芸術社会概念」をはみ出すものである。そこで『ソサイエティ』の「芸術社会概念」をカントからデカルトをさらに遡って「中世ゴシック様式」の「死のエロス」の真理・知識・権力としての「美と芸術」の専門家、ジョン・ラスキンらのサド的な倫理の狂気としての「言葉のカメラ」の「社会芸術規範」が出現するのである。
 ジョン・ラスキンの時代つまりヴィクトリア朝の時代、西欧芸術は、「性」を一対の夫婦の寝室に閉じ込めて、カント的な真・善・美を『ソサイエティ』の目的とする「芸術社会概念」の文学や音楽や絵画や彫刻や建築がアカデミーを構成するなか、「性と死」の問題が、真・善・美の『ソサイエティ』を超える真理・知識・権力としての「社会芸術規範」の秩序として求める空気が、ヴィクトリア朝の議会政治の中から生み出される。
 真理・知識・権力としての「社会芸術規範」は、真・善・美を目的とする方法としての文学や音楽や絵画や彫刻や建築という「芸術社会概念」ではなく、一つの芸術作品そのものが、真理・知識・権力の「社会芸術規範」であることが求められた。
 その典型が「ラファエル前派」であり絵画作品『オフェリア』である。つまり科学的なルネサンスの「技術」と、中世のキリスト教ゴシック建築の「造形神学」を結びつける真理・知識・権力の行為だった。「性と死」を美として巡るラスキンによって、①犠牲、②真実、③力、④美、⑤生命、⑥記憶、⑦服従が、共同幻想と国家幻想のあいだに、ゴシックリヴァイヴァルの『ソサイエティ』の理念として掲げられたのである。
 そしてレオナルド・ダ・ヴィンチの素描にみられるフィボナッチ数列(*1)の黄金比とは、『オフェリア』を制作する作家ミレイが、『カメラオブスキュラ』の凝視を、『パノプティコン』の監視によって、油彩顔料を支持体の肌理よりも小さな色紋に微細化することで分離を解消するにあたり、二重に重ねて用いた科学としての『ソサイエティ』の方法である。
 西欧絵画は垂直に立った鑑賞者が水平な視線で垂直な画面を見る遠近法と同じ視線で画家の視角九〇度のまなざしが対象を遠近法で透明にする倫理と狂気の画外画(ががいが)の『ソサイエティ』である。中国山水図は、水平透明面Vに広がる紙料の広がりを視角四五度の三遠法で測量し、そこに山水空間を測量的な三遠法を反復することで透明にされる合理と採算の画(が)の『ソサイエティ』である。大和絵は、水平透明面Vに広がる紙料の広がりを視角二二、五度で、奥行きを縮めた観測的な三遠法に、三遠法で把握したモチーフを〈畳み重ね〉の想像力で描くことで思い出す透明になる論理と享楽の画中画(がちゅうが)の『ソサイエティ』である。西欧絵画は機械製図法の概念を前提にした実測的三次元の遠近法であるが、中国山水図の遠近は、視角四五度の測量的な三遠法であり、大和絵は中国山水図の三遠法の上の、絵師の観測的な記憶像の〈畳み重ね〉によって成立する世界である。 

この回-了
次回は、「法外から正系をめざした男、司馬江漢」★から
プロフィール

honestum

Author:honestum
--原 稿--------------
文化資本研究-1『若冲と江漢、草枕にそって、スクリーンと目』文化科学高等研究院2018,01
季刊iichiko no.136『まなざしの歴史-3/長谷川派と江戸大和絵の二つの新古典』2017.10
季刊iichiko no.129『まなざしの歴史-2』2016
季刊iichiko no.125『まなざしの歴史-1 触読論』2015.01
季刊iichiko no.120「情動性という述語性の想像界」2013.10

--著 作--------------------
『概念芸術の地平/「哲学する日本」を読む&河北秀也デザインの解読』
2011.3.11以後の芸術哲学のエチュード
A5二段組710頁
文化科学高等研究院出版局2013年刊
-------------------------
『新版 デザイン本質論/吉本隆明学と河北秀也デザイン』
Designing B5二段組680頁
河北秀也デザイン305作品掲載
文化科学高等研究院出版局 2009年刊
---Designing---
--文化科学高等研究院出版局--
E.H.E.S.C. 発行
★ご注文は★
→ ehescbook.com ←へ
------------------------
『芸術機械/現代美術論序説』
Art-Machine A5変形206頁
書苑社1995年刊 KUSUMOTO発行

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--ようこそ楠元恭治のブログへ!--
このBLOG『まなざし論』は、
2009年
文化科学高等研究院出版局発行の
『概念芸術の地平/「哲学する日本」を読む&河北秀也デザインの解読』
継続活動です。

--履歴---------------------
1947年、北九州市八幡生まれ、美術デザイン研究・美術家。
1965年、福岡県八幡中央高等学校卒業。
1965年、上京4月-1966年3月まで 彫刻家・松本暹一に師事デッサンを習う。
1968年4月 東京藝術大学美術学部工芸科入学。
1971年、東京藝術大学美術学部工芸科ビジュアルデザイン専攻卒。
1973年.同大大学院修了(テーマ:20世紀アメリカ現代美術)。
1973〜1979年、現代美術研究グループに参加し、藍画廊、真木画廊、女子美画廊等で批評および展覧会活動を展開し、現代美術を分析した『ポップ・アートとグラフィズム』を三回に分けて女子美術大学紀要に掲載。
1977〜1993年、女子美術短期大学非常勤講師
1986年、テオリア発行雑誌「遊行」に『表現における生命感の問題=ゴダールとデュシャンまたはニヒリズムの中の反抗』その1。
1987年、『同誌』その2。
1992年、新設大学-東北芸術工科大学情報デザイン学科情報計画に助教授として参画。
1995年、女子美紀要『ポップ・アートとグラフィズム』を『芸術機械/現代美術論序説』に改題し書苑社から出版。大学院以来の現代美術研究テキストを植村恒有氏の助力のもとで構成した本『芸術機械』が、伊藤明氏(書苑社)の手工芸的な印刷技巧によって編集1995年に出版された。
2007〜2014年、並行して東京芸術大学デザイン科非常勤講師。
1996年、東北芸術工科大学情報デザイン学科情報計画教授に就任。
 その間父(恭哉)が逝く。先祖の墓も見るものがいなくなる。北九州、東京、山形の三つに心は分裂していたが、関東・千葉の中山法華経寺に先祖の墓を移し一つに落ち着いた。
 東北芸術工科大学で河北秀也を先頭にする「情報計画コース1994〜2010」では、「やまがた宝さがし」活動や商品開発「olahonaブランド創出」に力をいれ、大宅憲一氏や山下英一氏や青山克己氏や牧野由梨子氏らとともに牽引した。
 「やまがた宝さがし」「olahona」の実際化を継承させるべく「情報計画」の理論化-作業が課題となった。そこで思考形成のバックボーンの吉本隆明学と、その「生-デザイン」の実際である河北秀也デザインについて記述する活動を開始した。それは「河北秀也デザイン運動」に対する共感的記述表現として生成された。
 2003年から5年をかけて記述された『デザイン本質論/吉本隆明学と河北秀也デザイン』は、2008年、哲学者・山本哲士氏の助力のもと文化科学高等研究院出版局より発行されるに至った。
2006年、『デザイン本質論/吉本隆明学と河北秀也デザイン』を文化科学高等研究院から出版。
2008年度の一年間、美術雑誌『美術の窓』で「技と美」の連載執筆。12ヶ月12人の若手・中堅の工芸や彫刻の現代造形作家達の藤田政利、古伏脇司、林範親、ノグチミエコ、鈴木保、樋口恭一、中村木美、丸山聰、田中信行、金子透、石井香久子、加藤寿彦、12ヶ月12人の若手・中堅の工芸や彫刻の現代造形作家達らと出会う。
2010年、東北芸術工科大学退職。
 以後、展開されていた東北・山形の「やまがた宝さがし」活動は、新しい住まいになった千葉・佐倉の地で、妻よし子と共に「さくら-宝-さがし」に転移した。個人的なものだが、新しいカタチで継続している。
 江戸中期1746年、出羽山形藩から佐倉に転封してきた下総佐倉藩-藩主・堀田正亮(ほったまさすけ)の縁だと大げさに喜びながら、世紀末を挟んで、さまざまな事や人や場所に、であったことなどをふり返りつつ、このブログ文学にむかって日々を過ごしす。
2011年、「山本哲士の《哲学する日本》を読む」と題して定期的なブログ記述を開始。
2013年『《情動性》という述語性の想像界』季刊iichik-no.120
2013年『概念芸術の地平/哲学する日本を読む&河北秀也デザイン解説』文化科学高等研究院。
2014年『まなざしの論理』の定期的なブログ記述を開始。
2015年『まなざしの歴史-1音読のこゑと黙読のゑのあいだの現象学/触読論』季刊iichiko-no.125
2016年『まなざしの歴史-2』季刊iichiko-129
2017年『まなざしの歴-3/近世古典の長谷川派と江戸大和絵の二つの新古典』季刊iichiko-136
2018年『若冲と江漢、草枕にそって、スクリーンと目:文化資本研究1』文化科学高等研究院

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